お金を知らなかったときの世界線にもどりたい
お金が欲しくないわけではない
ただお金があるという世界線に没入したら
風と 鳥と 大地の引力と
そこに流れる とってもゆっくりな時間を
受けとる感性が消えてしまった
でも、時折戻ってこられる
そんとき 私、こどもになってる
老婆になってる
太陽がみえてる
虫もみえてる
風の中にいる
体に重さがあって 土に引き留められてる
それは 無駄なことを許したとき
無駄、
それは足されても引かれても
実利にとっては屁でもないこと
架空のお話、小説、映画
売るためじゃない 見栄もない 絵描き
地図なしのルート
レビューを見ずに入るお店
衣装ケースからタオルを何枚か出して、半分にカットして雑巾を縫うこと
なんの役にも立たない作品をつくること
より楽に 早く 賢く 不快感なしに「進んでいる感じ」のとりこになって、わたしはお金世界の一員になっていた
やることなすことの全てが、自分の肥やしになることを望んだ
でも、それで人生が 満開になったかというと そうでもない
時折、「生きていない」と感じる
子どもの頃の あの感じを手探りしている自分がいる
そういうときは無駄なことを「無駄」だと感じるゾーンに入っている
そう気づけるのはいつも無駄な時間を過ごしているとき
実利が利であることは、お金と時間の世界線にいるときだけだ
けれど世界は、気づくことができた瞬間にレイヤーが変わる
その場にいながら 瞬時に
戻りたいのだ 子どもの頃に、
戻れない
けど、大人でありながら 子どもに戻れることに気づいた
無駄なことを許すこと
無駄を許すには、まず自分が、そんなに多くのことをこなすことはできないと認めることだ
一日にひとつのことしかできない
いや、なんにも進捗しないかもしれない
そして、それでよいのだということ
自分がもっともっとできると思うから、
たとえば体を早く動かしたら より多くの家事が終わるとか
知恵をつかったら 楽に早くできるとか
まあ それでもいいんだけど
そうすると それを毎日やることになる
毎日効率のことを考えることになる
そこに 無理な感じ、要努力な感じ があれば
生きる時間は ひっ迫している
すると無駄な世界線に入れない
無駄と効率は反義であり
無駄にこそ 安らぎと幼児性がある
無駄という柔らかいケットに思い切ってとびこめば
あれ が これ だったと気づくだろう