ひとりで火打山に登ってきました。
火打山は新潟県の妙高市と糸魚川市にドーンとまたがる山です。登山口は、自宅から車で30分のところにあります。
一ヶ月前に、少人数のツアーに申し込んでガイドさんと途中まで登ったのです。
わたしは故郷の富士山ならば、幼少期から10回以上は登ったことがありまして、勝手をよく知っています。登山人数も多く 登り始める五合目にもはや高い樹木はなく、見上げれば次の山小屋。(五合目からは)非常に明快な山で 迷いようがありません。
でも多くの山、緑生い茂る山となると 私はどうやって入山していいか不安なのでした。
きっとマゾなのです。長くじんわり続く負荷を心のどこかで欲しているんだと思います。
身強の人はきっとそうだ。エネルギーを、肉体で鬱散することで健やかさのバランスをとっているんだ。
その上、ひとりで登りたいという気持ちが強く ひとりで登る慎重な準備として、ツアーに申し込んだのです。
単独で登りたいのは、足元をみて何か考えたり、考えなかったり、想うままにしたかったから。それと、見知らぬハイカーに気軽に話しかけてもらいたいから。
これが剥き出しの欲求。
(仲間と喋りながら登ることもいいけど、それはまた別。)
火打山には高野池ヒュッテという人気の山小屋があります。入山しようとした日の予約は満員。ホームページをチェックして この予約表を見て、当日の登山人数が多いのか少ないのかを量っていました。
多ければいいなと願い。
一人がいいけど一人は嫌です。
怖いです。熊の生息地だし、この前は近くで猿がキーキー鳴いていた。
朝 6時10分、登山開始。
電波の通じない日帰り登山。迎えに来てねの時間を夫に伝えて、それを厳守しなければなりません。でないと夫は捜索願いを出すでしょう。
折り返す時間だけを決めて、行けるところまで行くことにする。
多分、登頂は無理。
願わくば雷鳥生息エリアまで行きたい。
登山者は多いと踏んでいたこの日、ひとりきりでの出発。
序盤は森深い。
わたしは飛行機など浮世離れした空間にいると、パニック発作がおきるという経験があります。
見渡すと遠くまで露に、静かに濡れた樹々。
どんぐりが落下してガサリと葉っぱの音。
「こんな広い場所にひとり」
自覚すると一瞬 ドキリとするけれど、飛行機よりマシ。
大地に足がついているもの。と自分を説得します。
心細くなっていると、健康そうな男性が後ろからやってきました。
人に出会えてホッとする。
抜かれる
わたし追いかける、
お兄さんは男性にしてはスローに歩いているように見えますが、一定の距離を保とうとするわたしの心臓はバクバクです。
物音に立ち止まると、自分のすさまじい心音なのでした。
追うのは無理。
夫と子どもが待つ土曜に帰るか、山頂にむけて進むか、
葛藤しながら足だけは進みます。
*
あるポイントでお兄さんと一緒になり、
きょうは山頂ですか?
と声をかけると 分岐点まで一緒に登りましょうと提案してくれました。
見知らぬもの同士の、当たり障りのない自己紹介と無言が交互にやってくる山登りです。
無言なのは、わたしが呼吸をすることに精一杯だから。
このお兄さん、前回一緒に登ったガイドさんと同じ自然を専門にした学校の同期らしいのでした。
なんと奇遇な。
遅かったら、おいてってください。と私。
「いや、早かったら言ってください。」
早いです。
おしゃべりしているだけあって、お兄との時間はあっという間に過ぎるのでした。
分岐からは一人。熊笹に囲まれて。
同時にガスが霧雨に。霧雨がザーザー降りに。
ようやく高野池ヒュッテの三角屋根が見えて「ほーーーー」と一声。
ああ、人の気配よ。
雨の雫が落ちるヒュッテの屋根の下、縮こまりながら おむすびを食べる。
名物(?)のプリンセットは魅力的だが、今はプリンの気持ちではない。米や、米!
折り返し時間が迫っている。だからすぐに山頂方面へ。
レインコートの音が邪魔。
何度も立ち止まって、フードを外して、山の音を聞く。
そうすると
心臓と 耳鳴りと 雨の音しかしない。
時々風の音も聞こえる。
高所特有の、耳をかすめるようなヒューという音。
ああ、これこれ。
こんな場所にいても、
… だからこそ、
ヒュッと不安にもなる。
でも安心のお守りがある。
精神療法・森田療法の創始者
森田正馬(1874-1938)のことば。
自分の身体が自分のものと思えても、思えなくても大丈夫です。 (略)
あなたは銭湯に入っているとき、まちがって他人の身体を洗った経験はないでしょう。
誰でも深く立ち入って疑う経験をもっている人にはあることですが、自分の現在が夢であるか現実であるか、わからないものであります。 (略)
みなさんは、電車にのっていて、向こうの電車が動き始めたとき、自分の電車が出たような気がすることがあるでしょう。そのとき、これはたいへんだと思いますか。そんなことは、どうでもよいことでしょう。自分の電車が動き出したように感じたところでかまいません。それと同じように、自分の身体か、他人の身体かわからなくともよいのです。それをハッキリさせなくては、生きる甲斐がないというほどのことでもないでしょう。
自分が自分であるか、そうじゃなくなるか、
一瞬わけわからなくなるときがあっても 別にいいじゃないか。
生きているこの世界すら、夢か現実か不確かなのだから。
自分でなくなることが怖いのでなくて
自分でなくなることが怖い自分が怖い
怖いと思うわたしは誰だ。
いますぐ隣人の身体を触れるか?
下りは、本当にひとりだった。何時間もひとりだった。
もう疲れて、獣のことはどうでもよくなっていた。
たまに上がってくる登山者の熊鈴の音が聞こえると、気持ちが じんわり と溶けるようだ。
この人の鈴の音が聞こえているうちは、守られていると感じる。
ひとりになりたい、という欲望は
集団の中にいるから成り立つもの。
ほんとうに大自然の中に一人ぽっちになってしまったら、わたしは人恋しい。
遠くの鈴の気配を抱きしめたいくらいに。
引用:『自覚と悟りへの道』白揚社・森田正馬