「関係を大切にする」という養生



このブログは更新日が決まっているわけでもなく、つづける努力もしていない。

着火しない伝達本能のお尻を叩いて言葉を絞り出すこと。このブログとは穏やかな関係でありたいから「それはしない」という暗黙のルールがある。

わたしは気分を尊重する。
気分というのは、ひとつに、「その時の」 宇宙の気 と 小宇宙(個体)の気の、摩擦の香りだと思う。
算命学の後天運はその香りとカタチを推測する。


とても自然なことに思う。書きたくないときと、書きたいとき。
何か進めたいときと、そうでないとき。


自己満足な継続をつづけるより、書きたいときに書くのだ。
言い分は拙いけれど、とても純な層が積み重なっていて、わたし自身ここにくるとホッとする。


居場所をつくりたかった。









人間を30年以上やってきて、「そういうこともあるんだな」とひしひしと気づいたことがあって。

いや、これはほとんどの人…とくに身弱の人 (あの世系の十二大従星を持っている人、特に) にとっては当たり前な法則ごとなのかもしれない。


始まりが激しかったら、そのほとんどが すぐに鎮火する。




ということ。
わたしはこれが明確に分かるまで30年弱かかった。


何かとの関係にも命(エネルギーの持分)があるのかな。
養生する間もなく一気に出すのか、養生しながら長く漏らすのか。



入社してすぐ大きなプロジェクトを任され頑張った職は、終われば意欲が萎んでいき

最初から異常に気にかけてくださったり親切にしてくれる人は、そのトリガーがわからないまま、勝手に怒り 嫌われ 関係が終わった。 (そういう人は take を期待して give をする)

出会いでインパクトがあった人のほとんどは、数年後に隣にいなかったりする。




燃え上がったものの 養生したものは
熾火になって、今でもわたしの傍にある。





それは

とても大好きになってしまった人や場所やコトがあって、その際には、好きというエネルギーを全力でぶつけるのではなくて、エスプレッソにミルクを入れる塩梅で、まろやかにして漏らそうと気をつけるようになった。どうやら人と温度差があるらしい私の「関係を大切にする」という養生。






燃え上がってすぐに消えるものと同時に、
細く長く続いているものの強さにひれ伏せる。


60年代からほとんど変わらずに続けている山小屋。

18年間、おひとりで営業されている山のカフェ。


その人(場・もの)らしく、まわりに翻弄されず、無駄事を日々つづけていく強さ。





穏やかで、素朴、等身大
だから長くつづくんだね。





いつ行っても開いている。

いつ行っても変わらない。



3ヶ月後 3年後も また同じ営みがあるであろうその場所は、揺らぐ心を どれほど落ちつかせてくれることか。









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