「ある」ことを感じる




ヨモギの根は 強く、深く、表層の倍以上の長さを持つ。


冬の間 地上部分は枯れてなくなってしまうが、地下の根だけは残っていて 来春を待っている。


そうやってヨモギは生きている。



このヨモギを「摘もう」とすると 大抵、茎の根元で千切れる。

はらり と 別れる葉っぱ。



しかし

手にしたそのヨモギの根深さを 「このようになっている」と感じながら抜くと魔法のように根っこごと抜ける。力もいらず、するっと。


何も感じなければ、力づくで抜いても千切れてしまう。

根の存在を感じながら抜くと、まるごと抜ける。





それに気づいてから 試合のようにヨモギを抜いている。

ちぎれた。

あ、するりとした。




眼に見えない部分・普段 意識が向かない部分を「ある」ものとすると
(知識でもいいから知っていると)


世界線が変わる。その通りの応えが返ってくるのだなと。




何にしたってそう。

何を信じているか、どういう現実に納得しているか、ということが世界に返ってくる。



相手はこんなもんだろうと思えば そんなもんだろうし

表出していない何かを「ある」と信じれば、あるとして、力まず するりと表出するのだろう。


信じるといっても、感情や祈り、見返りを求める心ではなく。


ヨモギの根っこが深くのびていることのように、「ある」とする。









普段の私たちは手が伸びる先、目が向く先、に意識を占領されていて 背後にはなかなか意識がまわらない。


でも、物質としてみれば 前面も 背面も 等しくわたしである。




落ち着いて座ってみて、背・後ろを意識してみる。



するとそこから拡がって 360度 部屋全体がわたしになってしまうような気がした。





背後に蝋燭を置いてみたり。

ヨモギの根を観る(感じる)ように、目には見えない蝋燭を眺める(感じる)。






歩いているときにも感じてみた。

すると狭いコンビニでは 出会う全員とぶつかりそうになった。
私はぶつからないように等しく前面も感じているのに。

他者がギリギリになっても避けてこないというか、こちらに吸いついてくるというか。




前面感覚は集団の一員として必要なのだと感じた。

前に気を遣っているから、「あなた と わたし」の主客がうまれるのではないか。

後ろに気を遣うと主客が薄れるような気がして。



わたしたちは目前を意識しすぎているから、
安全な場所で 後ろの世界に水をくべることで
穏やかな変容が起きるんじゃないかな。







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