ヨモギの根は 強く、深く、表層の倍以上の長さを持つ。
冬の間 地上部分は枯れてなくなってしまうが、地下の根だけは残っていて 来春を待っている。
そうやってヨモギは生きている。

このヨモギを「摘もう」とすると 大抵、茎の根元で千切れる。
はらり と 別れる葉っぱ。
しかし
手にしたそのヨモギの根深さを 「このようになっている」と感じながら抜くと魔法のように根っこごと抜ける。力もいらず、するっと。
何も感じなければ、力づくで抜いても千切れてしまう。
根の存在を感じながら抜くと、まるごと抜ける。
それに気づいてから 試合のようにヨモギを抜いている。
ちぎれた。
あ、するりとした。
眼に見えない部分・普段 意識が向かない部分を「ある」ものとすると
(知識でもいいから知っていると)
世界線が変わる。その通りの応えが返ってくるのだなと。
何にしたってそう。
何を信じているか、どういう現実に納得しているか、ということが世界に返ってくる。
相手はこんなもんだろうと思えば そんなもんだろうし
表出していない何かを「ある」と信じれば、あるとして、力まず するりと表出するのだろう。
信じるといっても、感情や祈り、見返りを求める心ではなく。
ヨモギの根っこが深くのびていることのように、「ある」とする。
*
普段の私たちは手が伸びる先、目が向く先、に意識を占領されていて 背後にはなかなか意識がまわらない。
でも、物質としてみれば 前面も 背面も 等しくわたしである。
落ち着いて座ってみて、背・後ろを意識してみる。
するとそこから拡がって 360度 部屋全体がわたしになってしまうような気がした。
背後に蝋燭を置いてみたり。
ヨモギの根を観る(感じる)ように、目には見えない蝋燭を眺める(感じる)。
歩いているときにも感じてみた。
すると狭いコンビニでは 出会う全員とぶつかりそうになった。
私はぶつからないように等しく前面も感じているのに。
他者がギリギリになっても避けてこないというか、こちらに吸いついてくるというか。
前面感覚は集団の一員として必要なのだと感じた。
前に気を遣っているから、「あなた と わたし」の主客がうまれるのではないか。
後ろに気を遣うと主客が薄れるような気がして。
わたしたちは目前を意識しすぎているから、
安全な場所で 後ろの世界に水をくべることで
穏やかな変容が起きるんじゃないかな。