美術大学四年生。
就活でガラリの授業にて教授が
「就職なんて誰でもできるじゃないですか。」とぼそり。
イラストレーションのクラスで
卒業制作の行程をチェックする時間でした。
眼鏡を正し、授業記録らしきノートをしんしんと繰る先生と何とも言えない出席した6人ばかりの生徒。
教授のこの言葉を好いて、私は講評ノートに記録をしました。宝物のような言葉です。
学部学科に差こそあれ、皆が一斉に国英社理数を訓練されるなか、あえて筆をもち芸術の道を選び 大金をはたいて(もらい)大学までやってきた。もうそれだけで一般社会の精神性からどこか逸脱している集団です。
キャンパスの樹木を赴くままに描写していた子らが、美術大学という母体から飛び立つとき、「就職」をすれば「誰」になれるわけで、それはある種とても「楽」なことなのですね。
内定倍率とか、そんな話ではなくて。
自分が会社に入って これは楽である ということを体感しました。無視できない社会という圧があるなかで、訳がわからないことが気になり相手にするのでなく、会社では業が決まっているのですから。
しかも自動的にお金が振り込まれる。税や保険などややこしいことも自動的に処理が終わっている。これは楽だと思いました。
もちろん会社には労働としての苦悩はありましたが、私は誰で、何をしていてお金をもらっているという情報は この宇宙で言語化できない何かに立ち向かう行より私を安心させるものでした。
それから3年たち、国英社理数から逸脱したときのように元の木阿弥で退職することになります。2017年のことです。

「言語化できない何か」に浸る、そうせざるを得ない、でなければバランスを欠くようでした。
とは言いましても 言語化できない何かはもうここにありまして、誰しもがそれと共にあり 露出しっぱなしなのですが、思惟モードが強くなるとその一面ばかりに囚われやがて全面かのようにセッティングされます。会社では思惟、知性という機構はよくはたらきます。
会社っていいな、と思います。ほどよく健やかでいるために。
相談にやってくるアーティストさんにも薬局などのバイトをすすめた時がありました。一般的な現実性をもちながらも 異質な感性をもっていたり 感受性が強い人ほど、社会や分別の圧を真に受けており、圧を逃す意味合いでも無機質にアルバイトに飛び込むことは手です。
我が子を売ることが困難なように、芸術に純粋に没頭すればするほど 売ることもまた困難であります。だったら商品のための絵を描いた方が傷つかなくてすむ。
絵は私の内なる冒険です。生きるために自分の絵を売るたびに、絵を裏切る思いがします。制作することで、私は謎に近づくことができるのです。
ロベール・クートラス
決まりきったことをする、答えがある、定期的にお金が入る、公的書面や知りたがり屋を納得させる仮面(何をしている人か)が用意できる
このような点から少しの時間を一般企業で働くことは、この世界の謎や未知に近づこうとする クリエイターにとって.. 少なくとも私にとってはセラピーでもあります。