さざめき




わたしたちは “見る” ことだけで ものごとを受けとっていない

また、視覚現象も写真で切りとったような静止の連続ではない

もしそうであれば、目の前の木のさざめきを完全に描き現すことができるだろう



写真は現象を視覚風に再現することができるが さざめき を捉えることはできない。
しかし、そこにさざめきを感じることができるのは 写真をトリガーにして あなたの心のなかの生の記憶が起こされるから。


その場合、あなたの目が「造っている」



あなたは さざめき のなかにいた。

季節の匂いと音を感じている。

海の砂浜が あちち あちち だったことだとか。シートで休むお母さんの汗ばんだ太ももについた砂だとか。鉄棒でひたすら遊んで 去ったあとの手のひらの鉄の匂いだとか。





そよぐ木々は
現象が現象を呼び からみ 関係し合い
瞬間、唯一のさざめきを放っている

木をみているのに風をみている
木をみているのに水をみている
木をみているのに土の匂いをみている



わたしたちは さざめき を全身に浴びる

全身が目になる

全身が場所でいっぱいになる



絵画は静止であるが、感じた産みの作者がいるのなら

その一枚は物質かつ静止でありながら

作者が受けとった さざめき がこめられる


視覚的描写において写真の方が優れていても
絵画は 目に見えない力という点で写真より 生なのだ。

ゆえに絵画は正確でなくても魅力や魔力を放つ




目には見えないさざめきが画材という物質を得て

それはそれで モチーフとはまた別の新しいさざめきを放ち

見るものの心に風が吹く







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