Tarot Card (2)





時は経ち

新型コロナとか世間が騒ぎ出した頃、
一般常識や集団に対し 疑問や反骨の気持ちがあふれ、昔に退会したツイッター(現・X)に再登録した。


ツイッターでは無機質な情報をとりにいくために登録したのに、反して 人間として根源的なことを思い出すような有機的な恵みを享受した。
少なくともインターネット上でわたしが置かれた界隈では そのようなムーブメントが花開いていた。


そこで私は 思想や言葉の「先生方」に出会った。



優秀なシステムか、この宇宙の共鳴作用かわからないけれど、


「わたしもそう言いたかったんだよ!」と魂が出会いたかった言葉、「よくわからないけど、惹かれる」考えに出会い


わたしは実際にその先生方に直接会いに行った。




とくに 生命の髄に響くことばを呟く方いらっしゃって

プロフィールにURLもないし、

どうやったらお会いできるのか分からない。



けれど ここに行けば会えるんじゃないかという嗅覚によって あるセッションの約束をすると、「わたしです」とお会いすることができた。


ツイッターでは一切わからなかったけれど、その先生は 占者 なのだった。



先生の使うカードに興味をもった。(それは先生への興味からでしょうが。)
セッション終わり、記憶を手がかりにあらゆるカードを調べて 同じものと 関連書籍をすぐに購入。

新しい秘密を紐解くことは、わくわくした。大学生の時と同じように。



実際に先生からレッスンを受けたり
個人的にカードを展開するなかで



じゃあどうするんだよ? と心にストッパーを感じていた。




思うにそのストッパーはふたつ


ひとつは タロットを完全に扱うには 四元素、西洋占星術、数秘、神話 に通ずる必要があると感じた。東洋であれ西洋であれ本源は「同一」であるが、窓口を変えなければならない、つまり1から知識を取り入れることだ。

なんかこう、英語とアラビア語のように構成の異なる外国語をまた学ぶようなイメージ。
せっかく英語を習得した(つもり)なのに、また最初からか〜と。

でも全く異なるかといえば、本質的に重なるところもあって。


ふたつは「算命学(主・理論) 1本に徹しきれないことは恥」というプライド。人の目。
占者として算命学に加えその他手法を、とくに感覚的なタロットを取り入れることは「生半可」、界隈でなんども聞いていたから。

これが特権意識を感じるための「私自身による考え」のような気になっていたんだろう。


直感傾倒への後ろめたさ。


自分は(他者の指摘によると) 随分感覚寄りの人間で、たしかに算命学という理論のフィールドのなかで直感をあてにして文章にしていくことが手法だった。
年占いを書くにしても風景という詩的イメージを大いに頼りにして書いている。


もとい大人が何かをマスターしたり創造していく行為において

理論だけ!という創造者も 直感だけ!という創造者もいないのだと思う。

徹底した理論に生きる者も その文脈のなかで直感というものがはたらいて、理論から紡ぐものがあるのだろうし。

タロットは、そもそも背景に「体系」がある。四大元素、惑星と星座による西洋占星術、数秘術、神話。絵画も、素材と素材の親和性というものや適材適所、保存にあたり重ねる順番がある。
そのような礎になる学びがまずあって、大人の創造、直感が自由に動くのだ。



理論と直感

理論は直感に支えられ
直感は理論に支えられる

相反する二つが違いに支え合っていると自覚することこそ「陰陽説」の使い手だということ。



わたしは

けっきょく、言葉を下ろせれば媒体はなんでもいいのかもしれない。

そのへんの石ころでも、草でも。



ただおもしろいおもしろいで算命学をやってきて、これからも扱っていくし

また おもしろいおもしろいでタロットに突っ走ればいい。

お互いは遊離するかもしれないし支え合うかもしれない。

なんとも天報星らしいじゃないか。






形はまだないのだけれど。

(カードに敷くマットもこれから探すのだ。)





エネルギーは準備万端である。






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