
人間社会というのは 引力をもった小世界と小世界の 絶え間ない交わりと分離のことだ。
個々人は引力をもつ。
あなたはあなたを 日々、耕すためにここにきた。
親から、祖父母から、師から、友人から、書物から..
外界に接して 感受性と同調するものは簡単に吸収し、反するものは積み重ねによって刻まれる。
子どもの頃は大抵、実環境を選ぶことが難しいが大人になるにつれ 環境を選ぶことができる。
課題として 読まねばならない文面を読んでいた日々は、自由に、好みによって 気になる書物を手にとることができるし
既にデフォルトとして設定されている家族や、偶然、同じ地域 同じ時代に住んでいるからと ひとつの教室で日中の生活をともにする人間関係から、成長するにつれ自ら設定できる余地が現れ始め、ついに付き合う人間を選ぶことができる。

信じていない人間はいない。
信のタガがあるから 固定世界がある。
今日も、また明日も 樹木は大地から天に向かって伸びていることを疑いもなく信じているし、目を開けたらいつもの木目の天井がある。そう信じている。
家にはテレビがあるものだと思っている人は それが世界であるし、風邪は冷えからやってくると思っている人はそれが世界である。
信のタガの一部が崩れると ショックが起こるがそれは爽快であったり 自己変容のはじまりでもある。日常の多くが崩れてしまうと拠り所のない混乱によって一時、病になってしまうかもしれない。
この世界で恒常していられるのも、信のタガ、があるためだ。
ベースとなる日常生活という信から、思想となる人物や書物から得られる信、常識という信、形式という信、国家という信
さまざまな階層にある信を、幼少期から 無意識レベルで取捨選択し、付着した気の凝縮によって、ある時、私たちは全く新しいものを創造する。それが小さな「わたしの世界」を耕すという営みだ。
いまは、他者の発見や知識を ショッピングし、それを個性的でオリジナルな意見かのように ひねりなく呟き、他者に振りかざし、SNSのコメント欄などは時にCommand + コピーペーストの羅列のようだ。
たしかに既存はオリジナルを生む親だ。既存とは、知覚可能、ということだ。存在していても自分のレベルで知覚できないものは 自分に存在することはできない。
伝統。王道。常識。既存。生まれながらに あらゆる方向から既存を浴びて あるとき 磨かれた湧水のように直感が湧いてくる。オリジナルが生まれる。
耕された世界をもつ仕事人はなんて魅力的なんだろう。
魅力に惹きつけられ、物品なり サービスや空気感なり、その人の世界に包まれると 深い癒しや変容がおこる。あなたがその人に納得していて その人の懐にいる限り、その人の「小世界の法」が有効に… 真実になるのだ。
小世界の法 が 大世界の真実かはさておき、ご自身の小世界を とことん愛し、信じ、ときに疑い 更なるものにしようとする。
何らかの規則によって営まれている団体や組織に属していてもだ。(大枠でいうと皆、たとえば国家などの規則世界に属している)
その人が 規則世界のなかで 我が小世界をめいっぱい耕している場合も その人特有の芳香を放ち、まるで野に咲く一輪の花のように、他者に「みつけた」「また この人に」と思わせる引力をもつ。役所にも銀行にも総合病院にも公立学校でも。
だから 自分が 納得=信 したもの、納得する予感がするものは、それが多勢と異なるものでも 安心して追求すればいいのだ。その他のことは、他の人が担う。だから、あなたとは異なる気質、別の背景をもつ、他者がいる。

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