全身全霊で見る

繁華街と森林では どちらの方が情報量が多いでしょうか。

情報社会 と言われるように 情報量の多さは、看板・広告・喧騒 が集まる、わたしは当然 繁華街の方だと思っていたのです。

ネットの weblio辞書より

情報とは簡単に言うと「伝えられる内容」のことである。

加え、向こうに伝える意図がなくても こちらが受信する素片も情報でしょう。

スナック◯◯、居酒屋、焼肉、消化器内科◯◯クリニック、英会話、24H、曲がってすぐそこ、025XX895678 etc..

街では様々な人が伝えたい内容が目に写ります。

だから、そういった情報のない自然に行きたい、情報をデトックスしたいと多くの人々は郊外にでかけるのでしょう。

わたしは、自然には情報がないから 癒されるのだと思っていたのです。しかし樹々に囲まれわかったことは、むしろ都会より情報がありすぎる、その混乱から癒しが起こりうるということでした。

自我=エゴは、分かることしか分かりません。街や画面は「分かること」で溢れています。人を呼び込むために 人が分かるようにデザインされているし、言語やある種の音声など 共通認識の信号が飛び交っています。

分からないことを徹底排除し、分かることで再構成したものが都会。

森、山、海、闇、は「分かる」範疇外のことです。

「分かる」ことは 主に 視覚や手による触覚…前方頼りの情報です。背骨から前の意識によって 得られること。エゴ は分かることが大好きです。

分からないこともまた、情報です

わたしたちは分からないことも、全身全霊で常々受信しているのだと思います。

視覚から得れる情報など、情報としてはごく一部のこと。

本当の暗闇、沖、森の中、外国の見知らぬ土地、底知れぬ怪我や症状と共にあるとき。情報のツテなくただ立っていると自分が消えてしまうような 小ささのような 莫大さのような感覚に陥ったことはありませんか。

そんな時、私たちは「分からなさ」の海に溶けて エゴはあてなく浮遊します。

やがて全身全霊が目になります。

小話、

うわぁ この感じ!と、森や山ある風景にシャッターを向けると この感じが消えてしまう。

カメラは正しく描写してくれているのに どうもそのように写らない。

カメラの性能もあるでしょうが、それは森や山のような有機的で莫大な情報が交錯する場所では 私たちは自ずと理解ではなく、ただ 感じる方にシフトしているのだなと。

言語的視覚で山を捉えていたら人は狂ってしまうだろう。捉えることもできない。


前も後ろも 開いている。

山の大きさを視覚ではなく全身で感じている。

樹木を樹木としてではなく、風や揺らぎという文脈、音や匂いという空間、感情、霊性までもが視覚に集約されている、その統合を「見ている」かのように感じている。

感覚すべての統合は、カメラには映らない。カメラは視覚の模造だからだ。そして私たちは感覚の統合体なのだ。


(そのように一律写る感性のカメラや 写真を加工して再現すれば可能だけど)

言語的な目ばかりを使っていたら、そりゃ疲れるだろう。偏っているということ。つい最近まで わたしたちは言語なしの分からなさの世界にいたのだから。

安心を得たかわりに 霊性を欠いた。

だから 半分 目を瞑るのだ。

目 半分で見て

闇 半分で観る のだ。