購入者としてのナマクラの目


ホンモノは その通り本物のような佇まいを醸していることもあるし
ボロを着て ほとんど誰にもみつからず そっとしていることもある。

ナマクラは 大抵、その鈍さやいい加減さを隠し
本物のような格好をしていることが多い。

中身が充実していなくても 装飾や広報は魅力的なのだ。


言葉が上手で
石を宝石の値段で売る手段を知っている。


そのテクニックは他者に依頼することもできる。



生産現場の内部から
また、いち購買者として


ナマクラが混じっていることの多いことよ。



評価が高く人気であったり
ブランドとして歴史があったり
取り扱い件数の多さや
大先生、老舗、公式◯◯と言われるところでも


こんな感じでもこの価格を請求できるんだ、と感心する。

購買者の感性や金銭感覚はそれぞれだから そのサービスを購入して気持ちが満ちる人、救われる人、用が足せる人もいるので、上の皮肉は個人的なものかもしれない。



私たちはお小遣いを握ったあの頃から等価交換の実体験を重ねる。

100円で何を得れてきたか
1,000円で何を得れてきたか
10,000円で何を得れてきたか


ある額のお金と交換するのに相応しいモノ・サービスを選ぶ力を養ってきた。

自分のなかの1,000円とは何に相応しいのか、ぼんやりと定義がうまれる。

お金は、所と所と所で ゆっくりとシャッフルされ 満ちたり引いたりたり流動的なので、当時の100円と今の100円は当然違うし、あそこの100円とここの100円も違う。
人によっては感情も変数となり、給料として入金された10,000円と母に最期に手渡された可愛い封筒に包まれた10,000円は違う。同じ値であっても、文脈で効力が変化するのだ。

昔*より今は、10,000円で受け取れるものの 充実度の高低差がありすぎる。
それはギャンブルのようで、「10,000円とは」の定義にバグが起きている。

* 日本国に住む 36歳にとっての昔



何か、定規のようにみていたお金の量とは、その時その場で目盛りが変わる 出鱈目に近いイリュージョンとさえ思える。




インターネットによりバーチャルで商品を感じ 作り手の素性も 手触りも知らずにカゴに入れる機会を得て、ときに身をもって失望する。


石を宝石に見せる方法が簡単すぎて。


100人いて、その中の1人にでも「宝石だ」と思わせればいい。


そのテクニックをとことん追求していくことをマーケティングというのだろう。








欲しいものは 欲しいものの格好でいるとは限らない。

運と縁だ。

だから買い物、選ぶこと、出かけることは楽しい。


たくさんの石のなかから自分にとって 宝石に出会えれば。

宝石だと思って石が届いたらがっかりだ。その経験を恵みにできれば。


宝石を、宝石そのものとして陳列しているところから購入したい。

石を、石そのものとして主人が愛し 語っているところから購入したい。



誠実なところから。




購入者としてのナマクラの目を磨かなければ。











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