わたしはもはや 画家 じゃないのだな。
保育園へ願書をだす、大義名分として、肩書きという安心感を得るために
「画家」とか「会社員」とか、そう言い続けていました。
昨年から、不要な画材と絵の始末。
先週はキャンバスから釘を抜いて、麻布を剥がしました。
どんどん捨てたり手放して、それが世に渡り、他者を幸福にできたら
わたしの手元に残るのは、クローゼットの余白とその喜びだけでいい。
息子は木枠にカラダを通して遊んでいます。
かつての自分が描いた絵や文章をみて「これだれの?」と
まるで他人のものを眺めているような気になるときがあります。
ある時に社会に発表した絵や文章は不変だけど
人は毎日微妙に変化しつづける。
過去のものは、自分が生み出したものだとしても
それは自分のものであって、自分のものでない。
きっと生業というものは、掃除と同じく デイリーにし続けるものだと
埃や誇りを被ったものじゃなく、
物体や行為・精神・お金、それらの流れをとめない
生もの でありつづけさせてやることが 生業というんだと気づきました。
明日、わたしは絵を描かないので 明日のわたしは「画家」じゃない。
そして今日も。
自分を何と縛ることがなければ、いつでも何に戻れるのだろう。
紐をつけない猫のように
縦横無尽で出入り自由。