人間は、おそらく 混沌・わからなさに対し、見立てがないと進みにくい生き物なんだろうと思う。
子どもは母語を獲得する行程では、周囲の者の声と状況に対し、自分が既に発見した言語についての知識を総動員させて、その初めて耳にしたその言葉に仮説をたてる。
ある音 = ある物・状況・現象、という仮説を
生活の中で「あれ?ちがう」と思ったり「あっている」と検証を繰り返す。
これが習得の基本ということで、
習得するには、仮説を立ててから実際を知り、
納得したり、仮説のバージョンを書き換えるのだ。
コラム 「 夜 景 」 わたしが年長さんだったときに、卒業前に総まとめ的な自然教室があった。 夜の山道をみんなで行列して歩くという活動があって、当時流行っていた、踏むとかかとが光る靴を履いてきた子は重宝され(笑) 先頭に抜擢されていたり。 おそるおそる歩いていると、途中でお経が聞こえたような気がした。 園長先生(住職)が本当に唱えていたかもしれないし、 気が鋭くなりすぎて聞こえた気がしてしまったのかもしれない。 山道にむかうバスの中、バスの1番前に座っていたわたしに補佐の先生が「ななこちゃん、これ、なんていうか分かる?」と言った。 前には、山道と長泉町のキラキラした街の光が広がっている。 「けしき」と答える。「やけい、というんだよ」と先生。 やけい..。 自分の中の「けしき」がカービングされ その凹に「やけい」が入ってきた時だった。
わからない・分別のない世界が、もともとの
人間の脳をさっぴいた 宇宙の本来ではあるのだろうけれど そこを分別し、わかったつもりになり、外向きに用事をすることが 人間生活の陽的性質であり醍醐味であろう。
その、分かるさ・分割・固定・体系化・符号化 が与える安楽と気詰まりを知り、
それをついに超越していく方向性こそが禅の修行だとか
特段、禅といわずとも、一人素朴に生きる人間の精神修養なのだと思う。
陰と陽、女と男、ないとある、貧と富、貴・賤、
二極性を知ってしまった人間にとって
分別も無分別も
安楽であり苦しみでもある。
(この考え自体が分別世界)
占いは、仮にも「わかる」ためのツールであり、
算命学の占いは仮説づくりが用事であろうが
その職は、第一に「中庸へ導く」「あえて偏らせる」。
第二に「わかる効用」としての安らぎ感を与える役割だと思う反面
生き生きとした無限のものを限定しかねない。
だから、その人物の「占い」に対しての倫理観を察し、
伝達内容の選択、言葉の加減を調整していくことが
占いを健やかな業にするのだろうという雑感。