算命学について
ヒトという生き物は 本能的によくわからない事物、見知らぬ人、予測がつかない動きが怖いです。いつも危害を加えてくるものは把握できないものや動きだからです。
だから人間は知性を獲得し 人・物・事象・病 など あらゆるものを細かく分類したり名前をつけて意味づけをしていきました。
算命学は4500年以上もむかし、中国の殷王朝の時代にはじまり、陰陽説・五行説 という思想に暦術思考が合流したひとつの思想体系です。
いまよりも一層、古代東洋人にとって自然とは生きるための恵をもたらす一方、畏敬の対象でもありました。自然とは、そもそもこの世界とは「よくわからないもの」のひとつながりです。
そこで大自然を観察しリズムを知って、あるいは名づけ 分類し 整理して人間生活の味方に引き入れようとしたのですね。
そうやって練られた 陰陽五行説は、暦術、政治、軍略、医学、処世術、占い など、さまざまな分野に用いられました。
「ようわからんけど成功した」「ようわからんけど親と折り合いがつかない」「ようわからんけどお金がどっと入ってきた。」「ようわからんけどこの人といると楽」
….そんな様々な「ようわからん」事態を理論理屈で解釈していくんですね。
算命学は宿命や運命といったものに対し「善い悪い」を言わないです。
善し悪しというのは、その時代や本人の環境・願望によってあとから付加される二次的な価値観であって、算命学の結果そのものに善悪はないのです。「ただそうであるだけ」というニュートラルなもの。
また算命学は自然に沿って生きると楽と説きますが、自然に逆らってもそれもまたいいんだ、どちらでもご自由に。というスタンス。楽をとるか、苦をとって精神を練磨させるか決めるのは全部自分次第。
Essay in Suchness での考え方
算命学という処世術はこれまた見事に個人や集団のありようを表してくれます。しかしそれは、科学でもなければ事実でもありません。
もっとも大事なのは生き生きとした事実、この肉体、目の前に広がる風景だと思います。
外の大事な事柄にせっせと骨折っていくための「道具」にすぎないということです。
「自分探し」算命学はそのような迷宮入りの時間を節約してくれます。
心を観察するということは、観察する自分と観察される自分の二つにわかれ、
そこに葛藤や悩みが生じます。
鑑定結果をご覧になって、傍に置いて あるいは お忘れになって目の前の事柄にスッととりかかる。その姿をこの場所では重要視しています。