jin/mizunoe

基本性格
自然界でたとえると海や大河
底知れない思慮深さ
ものごとの理をよくつかむ
流動して国境がない
穏やかにみえて時に破壊的




季節観

甲辰の年。〈辰〉は春の土用。辰は湿土で、その上にある穏やかな春の海。〈甲〉樹木は海にほどよい木陰と微生物を提供し、その場所には魚があつまり漁師が喜ぶ。夏にむけて火気がいよいよ盛んになるときで、水気は内に収まる段階にある。光により大海の粒子は空へ遊離。重みをもったとき、植物を通ってまた還ってくるだろう。



❦ 占 ❦


つまらぬものの声を拾う

情報によって先を「見積もる」ことができるから頭ばかりが先行し、目の前のリアルを「遅い」とし、焦り、急かす。わたしたちが勝手に未来像をこしらえて比較しているだけであり、相対という幻を脱がせてみると 自然はゆったりといつもど真ん中にあり、その命にとって適切な現在はいつもここにある。遅くもなければ未満でもない。ことしの壬は、本来の自然の流れと共にある。「遅い」「早くしなければ」という文明社会がつくりだす錯覚から目覚め、「生きる」という本来のテンポにあることを実感する。自然は多くの現代人がおもうほど ずっとずっと ゆっくりその通りに動いている。

もし、常日頃あなたが一日を意味あることで過ごそうとする癖があるのなら、ことしは、暇であることを許すことができる年だ。自分の敷地をすべて意図した作物で計画的に覆い尽くすのでなく、小鳥が謎の実(うんこ)を落として、その謎の果樹を育てる適当なスペースがあるといい。

「神は あらゆる所に新たな楽しみを用意してる」・・・映画『イントゥ・ザ・ワイルド』にて、文明社会を捨て アラスカの荒野をめざす若き青年の言葉。神さまが散りばめた新たな楽しみに出会うことができるのは、余白のなかに寛いでいる者だ。自動車をゆっくり運転していると、ハイスピードでは気づくことができなかったあらゆる動きを拾うことができるように、スローだから見える景色がある。余白があると無駄と戯れることができる。急ぎ足では拾うことができない、「取るに足らない」ガラクタをポケットに拾い持ち帰り、それを楽しみとして解体したり生活に活かそうと創意工夫をしていくのだと思う。文明時間を抜けて、自然時間のなかにあってみれば、つまらぬものはつまらなくなくなり、そのものが発する微かな声を拾うことさえできるのだ。ことし出会う楽しみは、そうお金がかかるものではなさそうだ。なぜなら、誰かから提供される価値の援助がなくても、あなた側に面白がる感受性があるのだから。また、それはとても個人的、あるいは哲学性を帯びているものなので 誰かと簡単に共有することはできないのかもしれない。

このように 2024年は、未読の文庫本を紙袋にいれてほくほくしながら家に持ち帰るように、ごく自然の流れで コレ という人生の楽しみ・息抜き、あるいは 探求したい荒野 をみつけ、それについて子どものように没頭していく1年となりそうなのである。人によっては、これまで趣味や道楽程度だったものが既にあなたの中にあって、1年かけてそれをひたすら追求した結果、もはや素人とはいえない域まで到達してしまうことさえある。楽しさからくる純粋な集中力は「私」という大人を取っ払い、その人を純粋な命に帰すことができる。たとえそれが文明にとっての「意味」などなくたって。


一枚の葉

「そのまま見て、そのまま伝えたい」ことしの壬にはそのような伝達の本能が強くなる。これまで生きてきた文脈があるために そのまま見る ことなど実際のところできないのかもしれないけれど、それでもあなたは主観を排除したものの見方をしようとするだろう。

『木を見て森をみず』という言葉があるが、木、もっと狭窄に一枚の葉をただ見るのだと思う。その一枚の葉について哲学的なほどじっくりと思惟する。その葉に没入することで私を排除しようとするのだ。私を取っ払うために、哲学・歴史、⚪︎⚪︎学、図鑑、といった学問の見解をとりいれるかもしれない。

そうやって何かを捉えると、誰かに報知したくなるではないか。でも誰でもいいというわけじゃない、こっちは伝えたいのだから。同じレヴェル・波長をもつ人でないと。だからターゲットをしぼって、伝達する。もともと文章を書くことが得意な方、ことしか翌年に本を上梓するかもしれない。専門的な場所でフリートークをしたり、連載をしたり、個人的なSNSでもいい。伝えたいという原始的な本能により、とくに女性はお腹に命が宿したり何らかのかたちで子どもと関わる可能性が高くなる。小鳥が実を落とす話のように 美味しいものを食べ、遊びたいように遊び、何かに夢中になってゆったりと過ごすことができたとき、赤ちゃんが滑り落ちてくる「あそびの場」がうまれるのだと思う。


仕事・社会活動

あくせく働く時ではない。無理もしたくない。働いているよりは、お茶をのんで散歩したり遊んでいたいのだ。なにごとも「ゆったり」というムードになっているため、仕事にあたるときには 慌てず、実に冷静的確にこなしていく。中途半端なことはこの時期しない。徹底的に休むか(遊ぶ)・進むか、なのだ。ひとつ課題をみつけると、自主学習的に求められる水準以上に掘り進めるだろう。自分がそれについて納得したいという感じがある。

複雑に入り組んだ文脈・気持ち・印象・情景・暗黙知 といった  「なんといっていいんだろう」と言語化&共有 することが難しい一塊を、共有しやすい手触りのある言葉にほぐし、伝えていくような役割を果たすかもしれない。集団にあっては ファシリテーター や プレゼンテーター の立場など。
「生きること」に直結した本能、性欲・食欲・睡眠欲、におおらかで素直であるとき。食に関心が深まるときなので 台所に立つ者があれば ひとつの食材とじっくり向き合ったり、料理本を一冊購入して極めてみたり、オリジナルレシピの考案、家族の嗜好に合う加減を研究しようとする姿勢となる。


人との関わり

空間のなかにくつろいでいる者がいると、くつろぎは伝播する。こちらにリラックスしている感じがあるのなら、皆に合わせ あえてタイトにならなくてもよい。あなたがあなたのムードのままただ存在している、それだけで一役かっていて 空間がほぐれていくのだ。あなたとしては、今年、外にグイグイ出ていくことよりも 時として しばし独りになりたい・籠もって思索したい感じがある。単に没頭している世界があるのかもしれないし、内側にデリケートで高度な考えを抱えていて、なにも知らない人物に 土足で侵入されたり軽く意見されることを面倒に思う。だからこそ波長やレヴェルが合う人だとか同じ畑の人など、「文脈をシェアできる」小さな交友に居心地のよさを感じやすい。
また、自分のルーツにいる人々と縁が再燃することもある。ふと懐かしくなり故郷に帰るとか、なにかとても感謝したくなりお墓に挨拶にいくだとか、親の姿をみて これまで考えもしなかった子どものことが頭によぎったり 親や高齢者の技術を継承する覚悟ができるなど。