修了証


息子と初めて日をまたいで離れ 伊丹空港から飛行機に乗って お教室に向かった1年前。
カリキュラムを見渡すと「先は長いなあ」と思っていたクラス。



それがあっという間に昨日、終了。



学生時代「卒業証書」とは、ただの金粉の紙…. 母の着物箪笥に仕舞われるだけの、もの。
という存在でしたが

自分で授業料を払い(一部は夫の援助) 、学生時代以上に熱心に勉強した末、受け取れる
賞状。はあ…嬉しいです。

証にシビレているということは 西方牽牛星がホクホクしているんだろう。









わたしは二つの教室で算命学という命術を学んでいます。



どちらの授業にもそれぞれの「良さ」や「んー..」というところがあります。

授業内容で重複するところも多々あります。

同じ占技を取り扱っているのに、先生によってこんなにカラーが変わるものかと、どちらの授業も興味深くて。

とは言え、出費は少ない方が経済的にはいいですから
1本に絞るのが理想的。

ほんとうはそうして、カウンターでお寿司を食べたい。
雲丹と土瓶蒸しを食べたいです。


しかし 今のところ離れられない。


出費を抑えるよりも
それぞれの師や教材から得られる学び
というベネフィットが上回っている。




質問に対し100% 返してくれるので わたしにとっては得難い師匠であります。

やはり、生徒という立場で 質問が返ってこないと「わたしは発想がおかしいんじゃないか」と不安になり悲しくなります。(母との関係がそうだったから、と気づきました)

会社勤めのときもそうでしたが、「なんでも質問してください」という上長に限って、予想外の質問をするとスルーされてしまうことも多かったです。自分より下級のものは自分の思考の範疇にいるだろう、という設定ですよね。


その先生は、わたしの発想がおかしかったら「おかしい」と言うし
その時に分からないことは「わかりません」と言うものの
後日、ご自身で導いた説を 粘っこく解説してくれることも。

基礎理論が染みつけば 融通無碍であるから
原典に記載がなかったとしても、問いに対応できるという体現。
(これはもう一方の先生も仰っていました)



そして 占技 も 生年月日 すら使わなくても算命学はできるのだと。



無刀の境地にも似ているなと思いました。



算命学の器はもっともっと広いんだよ、と知れた1年でした。





果てしない。新しいことを学んだら、その分だけ過去のことが抜けてしまう自分に呆れる。
抜けた分だけ、また過去復習が新鮮なものに変わり。


こんなこと書いていたっけ? これ毎度思うよ。


勉強は続きます。





notebooks



この記事を書いた後日に気づいたけれど、
この記事がこのブログで100投稿目の記事になった。

「ブログを始めたら、まずは100記事。」

当初は そう思っていた。気づいたら到達していた。

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