医療、整体、占い、宗教…
東洋的なものが流れている療法というのは
問題だ!と目で確認できたり、感覚に違和感があったり
そのような「わかる」部位の全治を目的とはしていない。
症状が出ている箇所に薬を塗って、数日で、消える。
腰が痛い、腰を調整する。
子供が家で怠けてばかりいる、シャキッとした性格に直す。
悟りを開くために坐禅する。
そうすることもあるでしょうが、それは探究者がボロボロになって もはや
こちらの言葉も 掌の氣も 栄養も、感受することができなくなった本人の心と器官をまずは「受け取れる姿勢」にもっていく応急の手当であり、東洋の施術者がみているのは全体。
問題だ!と凝視し、分析し、名付け、丁寧に扱って、近視眼になればなるほど存在は問題として確立されていく。
むしろ、その箇所。
見るようであって直接見ない。見ないようで見る。
「それ」 That と呼んでもいけない気がして。
あなたが「苦」と感じているその現象は もともと悪という特色はなく、色味をつけるのはいつも判断。
0か1の バイナリー的世界観では「苦」はいつも排除されるべき対象だ。
役割があるから自然発生した苦を、知恵によって気分転換したり、なかったことにするから 何度でも場所を変えては 揺さぶりにくる。
苦を摘み出しているうちに、もっとも「崩れると知っていた、知りたくなかった」ところを揺すってくる。そうすることによって、バランスを保っている。
白の状態から一点黒になったら黒を消す。
そうではなくて、白にも黒にもなれる。
本来はそうだ。引き、押し、引く。
変化の質が行き届いていないところなんて、この世にあるだろうか?
性質の異なる2つのものが 消長を繰り返す この無限の再生システムに委ねてみる。
ガタゴト電車が山側に傾いたら山側に
海側に傾いたら海側に体を委ねる。
倒れるまいと身体をつっぱているより楽だ。
白のときは白なりの 黒のときは黒なりの心。
そうするとそこには白も黒もない、
苦しめるもの(白)、と苦しむもの(黒) という主客がない
だから苦しむこと(色)は、はたらきを失う。
それが「全体」なんだろう。