大盈若冲、其用不窮。
(老子)
『本当に満ちているものは空っぽに見えて、そのハタラキは窮まることがない。』
という現代語訳が多いのだけど、
わたしは歴史学者の保立先生の訳《派》だ。
大成若欠、其用不弊。大盈若冲、其用不弊。大直若屈、大巧若拙、大弁若訥。躁勝寒、静勝熱。清静為天下正。
大成しているものも欠けるところがあるからこそ、その働きが尽きることはない。満月も空しいところがあるからこそ、その働きは窮まることがない。長大な直線はどこか曲がっており、本当に巧みなものは拙ないところを残しており、雄弁は訥々(とつとつ)としているように聞こえる。動作を躁しく(さわがしく)すれば寒さは防げるが、静かにしていれば動かなくても熱さに勝つことができる。清く静かなことこそが世界の真ん中にあるのだ。
現代語訳 老子 保立道久
この「からこそ」に妙味がある。
よくある現代語訳は「完全なものは欠けているところがあるように見えて、その働きが尽きることはない」というムードで、なんだか立派すぎるように思う。恐縮する。
でも保立先生がすくう老子というのは 老子が本来の色味であろう 虚しさ・女性性・陰(引き)・静・ポエジー、が巧妙に引き出されている。
〈大盈〉という語は、礼記の「盈、月光円満をいう」から満月と訳し、より老子の詩的イメージが再現されている。
「算命学を学ぶのなら老子は読んだ方がいいです」と最初の先生に言われて2冊ほど手に取ったけど、全然ピンとこなかったもんね。
これはこれで話としてはわかるよ。でも、こんなもんなの?とショックだった。
でも保立訳はすっと入ってきた。禅・算命学・老子 という点が線になった。(禅宗は老荘思想の影響をうけている) 訳者の感性で老子の色がこんなに変わってしまうのかと。
算命学の星の名前とか、「ルーツは知らんけど、ここから引いているんだろうな」と思いを馳せる時がよくある。たとえば天胡星は荘子の胡蝶の夢だとか、調舒星は調べ=音楽的イメージかな、天南星はシンプルに最も南天に勢いよく向かっている時だからかな?とか。
そんな想像の一種で
天冲殺の《冲》は対冲の冲とは同じ字を用いながら趣きが違うのだと感じている。
対冲はその現象どおり正面衝突。つきあたり飛び散る。
一方、
天冲殺は冲しさ。
[冲しい・空しい・虚しい] が 天冲殺の味わいにとてもしっくりくるなあと。
そう言った意味でも、天中殺でなく天冲殺とよびたい。
天冲殺とは空間のない時間である。
空間の神は天上。そこに冲しさがある..。
*
- 満月も空しいところがあるからこそ、その働きは窮まることがない -
東・西・南・北・中央・天、
算命学でみると どんな人であれ、この六方向のいずれか一つ以上が欠けている。
東は 仕事や公の対人関係
西は 家庭や配偶者、休息
南は 子ども・目下
北は 両親・目上・師
中央は 現実的な心
天頂は 精神的な心
そう、人はどこかムナシイところ(隙) がある。
だから「動き=ハタラキ」が尽きることがない。
空間の欠け(天冲殺の部分)は傾斜を生じる。海の冲におとされたら瞬時に手足を動かし上空にありつこうとするように。北が欠けているものは気が南に向かい、南が欠けているものは気が北に向かう。
冲(おき)に落とされる、
というイメージでもやはり〈冲〉
冲では思い通りに動けない。
陸のように思いどおりにしようとしても溺れるだけ。
ならばいっそバタバタせずに冲で浮かんでみようか…。
欠けている部分は気になる。ある種、本人の欲望となる。だから余計に執着する。でもそれを常套手段で手に入ることが非常に困難であるということ。だから傾斜方向にヒントがある。傾斜という手段で欠け世界に触れていく、ということになる。戌亥天冲殺が引き寄せの法則やイメージの力を活用してお金(辰巳)を手にいれ、辰巳天冲殺がリアルな経済活動をするなかで精神性や目に見えない法則(戌亥)を手にいれるように。
*
冒頭の老子を読むと
むなしさがあっていいんだよ。
満月は満ちているようにみえて すでに影がある。
だから満ち欠けというハタラキがあるんだね。
むなしくない人 (物・現象) なんか、
そもそもあるのかい?
と言われているような気がして。