死にたいと思うとき



死にたいと思うとき

じいじから頂いたお小遣いの空封筒をみて号泣する。



「自分」が「わかっている」状況がすべてだと思って死にたいきもちなのであって

身体はそのときも お腹を空かせるし
シャーっと血液は流れているし
便意があればトイレに足が向くし

なんか生きているのである。


じいじは既に亡くなっているけど、わたしと共にある。

それはご先祖様がどうとか、守護霊がどうの、とかではなく


母、父、祖父母、三代前、四代前..
それぞれの個体が1本の糸であり、新しい糸と絡み合いながら、家系という複雑で有機的なタペストリーを構成している。



わたしもあなたもその糸 1本ということだ。




だからじいじの存在を茶封筒で感じた時
「なんか大丈夫」ということを実感したんだ。


全体があるから、思う存分 悩んでください。


それで結構です。






なんか文字書いてある湯呑みをもって、こっちみてくるじいじ。




んー、
そういわれると、ちっぽけに思えるよ。

死にたいとおもうときは自分にかなり集中しているんだな。
しかも、「自分」だと思っている、一部に。




きのう家系図をみていた。


祖父母の時代となると子どもの数が5人を超えてくる。

幼くして亡くなった方もいるだろう。

未婚を貫いた方もいるだろう。

臆病者もいただろう。

頑固者もいただろう。

犬を飼っていたものもいただろう。







家が「とぎれる」というけれど

それでも全体に絡み合っているから。



下だけじゃない。

上も、斜めも、横もある。





何かしらの形で糸は撚られて、

わたしという個体は

今の代を演じる。


歩く 食べる うんこだす 笑う 死にたくなる 起きる つくる




後方の右がじいじ、郁男少年


写真は母方の祖父の故郷、伊豆の農村風景でした。
祖父は1934年生まれで、このころ10歳だとしたら
これ、戦時中だね。でもみんな最高に楽しそう。



おやすみなさい。


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