善意という暴力



経験者が未経験者の 楽しみ・学び・創意工夫 を 善意で奪っていく構図は滑稽だ。


この経験者と未経験者は、
親と子、先達と後達 の関係に通ずる。




頼んでもない おさがりという善意。
初めての赤ちゃんを迎えるための、赤ちゃんの召物は私が選びたい。お金を出したい。界隈には、どんな形状の肌着があるのか、お店があるのか、自力で学び、楽天をサーフィンしてとことん悩みたい。


頼んでもない アドバイスという善意。
どんな種子を蒔くのか、畝と動線をどんなレイアウトにし、どこに何を植えるのか、私が決める。使い込まれた慣習や知識という律にはめこまれる前に、バカな理想を具現化する無邪気さを守りたい。




どんな者にだって、その背景に温められた文脈があることの想像もつかず、何も分からない人なのだと勝手に思い込んでしまう。

結局のところ、自分の体で確認しなければ 真にメカニズムがわかるわけがない。


何も分からない人だとしても、
その真っ白な危うさと面白さを そのままに見守り、そこから学びとることもできるのに。



思春期にいたれば 人生のタペストリーに編み込みたい人物や思想を選び、その背中を追うくらいの能動性はある。


困ったら 見つめるだろう。尋ねるだろう。




自分が未だ頼まれていない、ということは
あなたではないかもしれないということだ。




個体は一人分の人生行程と「その時」を経験するのみ。
だから意識と肉体は個々人で別々なのだ。




皆、ただ自分の人生を勤しむことにフォーカスをあてればよいものを。






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