本日は丸一日、算命学の授業でした。
きょう、授業の中の例え話にオランダの画家 ゴッホ がもちあがりました。
Vincent Willem van Gogh 1853-1890
日本でも、今「ロンドンナショナルギャラリー展」で《ひまわり》が来ていますね。
東京開催は今月に終わって、来月は大阪にやってきます。
師はゴッホの作品が生理的に「無理」だったそうで。
アムステルダムにあるゴッホ美術館に行ったとき、あのタッチに囲まれて もう居た堪れなくなり 施設から脱出してカジノへ向かい ボロ負けしたと話していました。
授業の中では 突然 師匠から質問を投げかけられることが多いのですが
わたしが 仮面画家 ということもあり 指名がかかります。
ゴッホどう思う?
「私は好きでも嫌いでもないです。大学の時に授業でゴッホを研究して、描画を再現する課題がありましたが。それくらいですね。」
と答えました。
結局、ゴッホの絵は対1枚で見るなら大丈夫だけど、
複数に囲まれたからアカンかったのでは? と傍にいた社長さんが諭して
ゴッホの話は終了しました。
その話題が過ぎたあとも わたしは授業を追いながら 悶々としていました。
自分が真に「そう信じている」ことを 咄嗟に口言葉に変換できなかった悔しみ。
「観る人の眼が その《ひまわり》を芸術にするのです。師が見た《ひまわり》は芸術でなく、の 気味の悪い布だったのでしょう。」
と 言葉を引っ張り出せなかったんだ。
意図を持って着色された布あるいは紙 即ち 物質は、
観る人が発生したとたん画家の所有じゃなくなるんですね。
観る人に観られて その人の視覚神経を通って感情を司る脳の領野が反応する。
眼の前の《ひまわり》はゴッホ自身でもないしゴッホのものでもない、ロンドンナショナルギャラリーのものでもなくて 、観て その人が琴線を震わした瞬間に 観た人の所有 になるんだ。
冬の冷たげな雨音が 人の感覚器官を振るわせて それが美ならば その雨音が芸術だし
絵画に限らず、芸術作品は 観る人読む人聴く人がいなければ 芸術ではない。
だからわたしは今まで描き貯めてきた 着色した布あるいは紙を 手放すことに決めたんじゃないか。そうだろ。
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緊張感のある人間の前で 剥き出しの表現をできないのは 幼少期から身についた独特な処世術というか癖だし
(きっと親だとか目上や世間から、異常者だと思われることが 怖いのだろう)
わたしの師匠はとても正直な気質の持ち主で
思ったことはそのまま口にするような剥き出しの人間なので
そういう人物と ほんまもんのコミュニケーションをとるなら
こちらだって丸裸になるしかないな、とつくづく思います。
本心を咄嗟に口言葉にできなくて悔しい、
と思うということは その人物と 本当のコミュニケーションを図りたいという好意です。
それでも 役所の人など一度きりの人、
裸になったとたん ムキになって攻撃体制になり こちら側のエネルギーを無駄に消耗することになりそうな人 (つまり、闘争という莫大な エネルギーを費やす価値がないとおもう相手) には 衣をかぶって生身を隠すのは 自分を守るために使う術です。
自分の化けの皮を剥がすのって とても難しい!
一体 何枚かぶってるんだ? と 今日のようなことがあるたびに 毎度思う。