仏教に「空」kū という概念がある
般若心経 のなかにある 色即是空 空即是色
の 「空」だ
kū は 無・非存在 ではない
「色」shiki が有限で 「空」kū は無限である
色は空で 空は色
だから 有限は無限 である
森羅万象、有耶無耶が雑然として、無尽に織れているところ、
鈴木大拙
それが直ちに「空」の座である
この宇宙の 一切
それが 空
算命学は 陰陽五行説 がルール
陰陽は2分類で 五行は5分類
陰陽五行説: 目に見える・(感情など)目に見えないに関わらず、人間にとって身近な「あらわれ」を分類したもの
万物を 5分類したものをさらに陰陽にわけて 10分類になり それが十干という 符号になる
空 に 色(陰陽)づけ し 人間が実生活で 都合よくつかいこなせるようにした道具
しかし陰陽説は 二元論でありながら
0=∞ が 霞んでみえる
いや 実用以外 の本来は そうなのかもしれない
陰の中には必ず陽の兆しがあるし
陽の中には必ず陰の兆しがある
五行とて
木・火・土・金・水 と5分類されているにも関わらず 木の中には 火 土 金 水 の気は存在する。
火の中にも 木 土 金 水 が存在する。
そうでなければ 「人は誰でも十大主星の全てをもっている。」なんて先生は言わないはずだ。
算命学陽占にしても ある人に 龍高・玉堂 という習得本能の星々が 人体星図にひとつも無かったとして、その人は習得本能をもっていないかというと そうではない。人は皆…. というか 万物は「五」を必ず含んでいる。人体星図は、「五」の どの気が 自分と融合しやすいかという鋳型にすぎない。ワイングラスという鋳型があれば ワインが注がれるでしょうよ、という 推測。
じゃあ全てが「1. 2. 3. 4. 5」を含むのに その現れが違うのはなぜか。
地上に 樹木が樹木であり 灯火が灯火であり 山岳が山岳である。
樹木というあらわれは 本来 輪郭でも束縛でもなく
「空」が 「色」という観点からみたら 樹木ということではないか。
空は「∞ =0 = 1 = 1.2.3.4.5 = 色」というのだから
4が強く(?) でた箇所は 火の色になる。
空即是色 の それ
不自由=必然=自由
天冲殺は 算命学風に言うと「空間欠落」だという。
算命学は 空間と時間 の理論だが
禅と算命学 を 眺めているわたしの認識だと
この算命学用語「空間」とは仏教用語の「色 shiki 」である。
天冲殺とは「色」という輪郭が消失してしまうことだとおもう。
天冲殺とは 色即是空 の その刹那。
1. 2. 3. 4. 5… → 1 = ∞ = 0
(観念としての) 6方向 のどこかにに 欠落があるから二次的に動きが生まれる。
6方向: 東・西・南・北・地上の中央・天上の中央
欠落?
欠落とは 天冲殺理論の 学術のための方便にすぎない。
欠落は欠落しているゆえに充足している。
ひじは外に曲がらない
眼は横に 鼻は真っ直ぐに
柳は緑で 花は紅
大用現前
算命学を知らない人は ソン?
もうすでに ありありと その作用をあらわしているのに。
鑑定書 以前の このありさまである。
しかし 人は空の中にいながらも 一度 色を通過しなければ 空を「知れ」ない。