プロの閾値まで到達すると アマの心に還る話





入門し スキルを自分のものにし 玄人の閾値にたどり着いたものは 結局のところ 初心に戻るということがあります。


「好きなこと」「やりたいこと」は「趣味」ともいえます。

いまや「好き」を 仕事でやっておられる方も多いです。



みなさん 好きで始めたことが 道を求めて進めば進むほど 「好き」だけではすまされない状況になります。お金を払って スクールに通ったり 専門書を購入したり、わからないことがあれば先達に尋ねる言葉を選んだり、ワークショップやサロン SNSをまわって人と交流したり、あるいは 家族と摩擦が起きたり、義務を果たすために事務的手続きなど本業と関係ないことがらに手を焼いたり..






戦国時代の末期に 沢庵宗彭 という僧侶がいます。

(バガボンドの、あの沢庵坊主です。お漬物の たくあん 考案の人)



沢庵和尚は 剣術家の 柳生宗矩 に
禅者という視点から 剣術における心の置き所や 心の在り方 を指南しました。




はじめて太刀を持つ者は、太刀の構え方も知らないので、心にかかずらうことは何もない。
相手がこちらに打ちこんでくれば、必死に対処するばかりで、そこには何の気配りもない。
やがて 様々なことを教え込まれる。 太刀の持ち方、テクニック、心の置き所、いろいろなことを知れば知るほど いろいろなところに心が止まるようになる。
そうなると 相手を打とうとすれば、初心の頃よりも かえって不自由になってしまったと感じる。

『不動智神妙録』沢庵 宗彭





熱心になされば なさるほど 「好き」だけではすまされなくなって
好きなことを 今までと同じようには見られなくなる。

好きなこと、それ自体どころか 他の事象でさえも 同じようには見られなくなる。

他者が愚かに見えたり、自分が愚かに見えたり
傲慢さや 果ては ニヒリズム的になることも。



心身ともに ずいぶん辛い目にも 合わなければならなくなります。




楽しみのために、という要素は もうどうでもよくなって、ただ目の前の事 に取り組んでいらっしゃる、というような状態になります。



この時点では もはや 好きと仕事の区別がなくなって、ひらすら骨折りだけがあるというふうになります。




日を重ね 年月を重ね、稽古をするに従って、太刀の持ち方 構えも どうしたらいい、などと 思うことがなくなって、

ただ最初の 何もしらずに太刀を握った あの時のような 心の状態になる。

一から十まで数えていけば、一と十は隣り合わせになる。

音の階調も、一番低い「ド」から レ. ミ. ファ. …. と上げていって 更なる「ド」にたどり着く。

つまり 下の次元の上限は、上の次元の下限と 隣り合わせになる。


ずっと高いと ずっと低い は 似たものになる。

仏法にしても求道していくと、その果ては
仏も真理も知らぬ人のように、人目をひくような 仰々しいものではすっかりなくなってしまうもの。

沢庵和尚




「ド」と「ド+」は 同じであり 同じではない。

辛酸なめて たどり着いた「ド+」の自分

結局もとの木阿弥

学びを進めるにつれて 愚かに思えた人々は、ただの人々になり
合わないかもしれない と感じた 趣味は 自分の一部になっている






この姿こそ、
生きることをきわめた姿であり、
人生の達人




算命学で「やりたさ」「好きなことをやる姿」は 東方で、東方の意味合いは「肉体の未来」

肉体(=地球) が 未来(=東)に進むこと は自然の流れであるように
欲望に従い行動することは 自然なこと


「悟りたい」「稼ぎたい」というのも欲望だし
「無欲でありたい」「お金はいらない」というのも欲望



好きだろうが 嫌だろうが やらされているものですら
道に入ったら 目の前のことを、徹底的に 完全燃焼すること


求道して 求道して あるとき

濁りのようなもの が 脱落するとき


それが「ド+」の境地 であります




※この記事で引用した「不動智神妙録」の現代訳は 筆者の拙訳です。
原典の音階表現は 東洋音楽の十二律であるが 読者になじみ深い西洋音階でアレンジしています。
十二律: 基音を「壱越」とし
一、 壱越 二、断金 三、平調 四、勝絶 五、下無 六、双調 七、鳧鐘 八、黄鐘 九、鸞鏡 十、盤渉 十一、神仙 十二、上無



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