ほるか ほられるか





この10ヶ月間、自分の技術と理念のようなものを どうやって社会と絡めていくか、その方法を 慎重に模索していた。


動きたい気持ちを少しは抑えて
占い業界のみならず さまざまな世界を静かに観察し 本を読んだ。




ちょうど今の社会背景が大きなヒントをくれて

ひとつ真理を得たことは





ホンモノはなかなか表に出てこない のだな、ということ。





大勢の支持を得ているからといって、名があるからといって、その中身がホンモノとは限らない。
(一握りは ほんものだったりもする)

とくに資本主義世界では 結局、公開パフォーマンスがある人・嘘を平気でつける人が勝つ。
それは訴求力という点において、天才なのだと。経済を回してくれるのは彼らの力だ。



低リテラシー・マス層は 後にも先にも 頭の使い方に攻めがないので

視覚的分かりやすさ、キャッチーなコピー、権威が示す方向に財布も足も、生き方さえも、自動的に導かれるようになっている。


マスをターゲットに動かせば マス分のお金が動くことになる。


何かしらの誘導は、どんな人でも完全には逃れられるものではないと思っている。
ニッチな世界にはニッチな世界のマスがあり、結局はどこかの水溜りに行き着くしかないのだ。



けっきょく 何に自分を彫刻させるか、なんだ。

彫刻刀は自分で選ぶことができる。
大人になればなるほど、だ。


その彫刻刀は算命学でいうところの「環境」といってもいい。
木彫であれば木の材質が「宿命」




彫刻刀の種類を選べば 形づくられたものが 自分の今になる。


決して、生年月日であらわれた 宿命とやら
だけで自分ができているわけではなく
宿命は木塊の材質(アカマツ? スギ? イチイ?) や
硬さ、節のありなし、などそういうものだったりする。




大きなものと思い込み


経営が行きすぎて、品質が疎かになったり 顧客や従業員の健康を度外視した多売になれば「もの」という点においては贋(ニセ)であり、その主催者は、作り手でも商売人でもなく経済人になる。

もちろん 贋でなく ホンモノを行き渡らせる真の経済人もいる。
そのような人は、外でなく内の豊かさに着目している分、商売人というのかもしれない。


規模が大きければ大きいほど、前者のような傾向があるようにみえる。



「エライ人」が「エライんだ」という短絡的なものの見方を義務教育体系や先達に型をこしらえられた私たちだけれど、2020年から今まで「エライ人」… 分かりやすい権威は なかなかいい加減であることを知ったし、阻止できないものがあったり、失敗したり、質問に黙ったり、思考停止していたりする姿がクリアにみえてきた。


これは、
もうエライ人に人生の大事な選択を任せるのではなくて

個人で、個人の集合体で 生き方を選択していく節目が さらに大衆にとって分かりやすい形になっていると、 いうことなのではないか。



さっきのはなし、彫刻刀は自分で選んでいいのだ。


こんなにも わかりやすいヒントを環境がもたらしてくれているので、(気づければ) いろんな種類の彫刻刀が自分のまわりにたくさんあることに気づく人が出てくる。


彫られるのみの世界にいた人たちも 自分が選んだ刃で、自分という責任において「生きる(彫る)」


また、彫られてもいいし、彫ってもいい。


自分だけで彫り続けてきた、と思っていては勘違い。
じつはいろんな影響を受けて 生かされている。
社会にも恩恵をたくさんもらって、今ここにいる。




ホンモノ





生きる過程で

ネット世界の奥地や
商店街の一角
海外の店舗で

ホンモノに出会ってしまうことがあるから探究はやめられないよ。




冒頭に書いた通り ホンモノのほとんどは表にでてこない。



だから消費者が自分で探究しなければならず、
探究者のみがホンモノと出会い、
ホンモノは ホンモノのみに知られ、
その界隈に豊かさをもたらす。





それが個人の集合体の世界。

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