これは「善い」とされていたものが 実は「悪く」て その悪みを排除しようと更に何かに手を出しても、それにも別視点での悪さがあったりして。善いか悪いかの二元論の世界にいる限り どこに行っても安心というタオルケットに包まれることはない。
唯一の白にたどり着いたとして ではその周りは?
唯一の白をつくることは その境界を超えたら 黒だ。
そのもの 自体は 善い・悪いの 計らいはなく ただそこに存在しているだけであり
善し悪しは 誰か(who) わたし(I) が 作った偏見。
汚れなき時代の、古くの人々の生活を理想『本来』とするけれど
その人が100人いたら うち何人が100歳まで生きられただろう。
荒野に住む 獣だって腹に寄生虫を抱えている。住んでいる環境には毒の植物や動物がそこかしこにいるだろう。
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人は自力で生きているつもりでも
先達の知恵と プロフェショナルの生産から完全に逃れることはできない。
全て自分でまかないきれるほど 時間も身体もないのだ。
ここに今 わたしは一人しかいない 。
誰にも迎合しない。信じられるものなどいない。
と厭世しているわたしの股間にはおそらくパンツが纏われていて
下着は形状の考案があり その素材を育む人がいて 素材を裁縫する人がいる
さらにその先には 下着を店に届ける運転手がいて 販売する商人がいる
一人で子どもを育てている
と思っていても そこにあるのは「孤独感」だけで「孤独」ではない。
建物にいるのなら雨風から 赤子とあなたの体温と静寂な時間を守ってくれる。
洗濯機があるならば あなたが汚れ物にかかずらう時間を1時間割いてくれる。
画面があるならば 赤子に数十分の楽しみと あなたに数十分のユルミをもたらしてくれる。
それらは あなたが考案・発展・製造したものではない。
いろんな人が計らずしも 子育てに参加している。
また、妊娠できなくても あなたは巡り巡って 子育てに参加している。
このように、
ものひとつとっても 考案と発展の歴史、製造者からエンドユーザーまでの工程、たくさんの人・時間がつまっている。
たくさんの手が加わったのであれば そこには大なり小なり見えない善悪がいっしょくたに含有される。
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算命学で 真に生きる とは
気・心・体が一致している状態
十大主星では鳳閣星的、無為自然な状態・あるがままの状態。
想念(欲望) → 心(決定) → 肉体(行動) が スーッと連携している状態。
そして そもそも 真に生きることの出発点は
石門星的・清濁併せ吞む状態である。
それを真の和合という。それは
全てのことに完全に責任を負う覚悟と行動
なのだが、わたしはシンプルに、石門の常套句「清濁併せ吞む」につきる、と思っている。
それこそ自由奔放の世界のヒントなのだと。
肉だけでなく骨も内臓も目玉も食べる。
実だけでなく皮も食べる。
玄米を食べる。白米も食べる。
無農薬食品も食べる 添加物も食べる。
善悪の世界で善悪を取り入れていくホールフード的な完全降伏。
主客未分以前。
玄のまた、玄。
100%の安全なんてあり得ない
でもそれこそ 「生きている」という全生物の共通項
ゆえに自由で自然。
そうおもう
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【記事抜粋】 玄が白も黒も包含しているんです。 老子の言葉に「同謂之玄。」 「同、之れを玄と謂う」とあります。 有も無も、黒も白も、わたしもあなたも、甘いも苦いも、 名前と性質が異なるだけで、出どころは同じよ。その「同出」が玄。 これは算命学の一極二元論の一極にあたると思うんですね。