人を生かすことによって 己が生きる
という算命学の金言。
自分に与えられた才は 他人に生かした時点で初めて生きたものになる。
という意味合いもあるだろうし
わたしとは「わたし」のみで成り立っているのではなく 集団があるがゆえに わたしという肉体も精神も、成り立っている。
肉体は父母という最小集団から生じる契機をもらい
その10ヶ月後に この世に生まれ、口にスプーンを運んでもらって、肉体が維持される。
インフラや医療など 社会の構造に知らず知らずに支えられ 父母、親兄弟、友人、書籍、教師から影響を受けてこの世の摂理をなんとなく知る。
「自分」色がなんとなく確立されたなら「自分」が選んだ「誰か」の考えを 収集して、自己確立をした気になる。
そうやって集積した誰かと誰かの思想と、実体験をすり合わせて考察・訂正を繰り返し 本物の自分の考え、というものが出来上がる。
しかし、本物の自分の考え、すらも やはり環境の集積物なのだから。
でもその環境は 選べる。
林檎を描くには 林檎を描いてはならない
卓上に色画用紙を敷き
林檎、ウッドブロック、金属球、ロープ というモチーフを組み、主役を林檎と決める。
絵・画のみならず芝居や音楽映像にも言えることだが 主役脇役 設定は欠かせない。
1枚の画を見ているとき、人間の目は、実は全てをみているようで瞬間的には一点しか見れていない。見ている一点以外は脳で推測されている。
主役=見せ所 というものを設定し 2番手、3番手と動線をつくることにより 観察者の視覚のみならず心の変化をもコントロールする。
浪人生活も終盤あたりで妙な感覚の発見があった。
林檎を描くには、林檎を描いてはならない。
林檎以外 を描けば、ホンモノの林檎が浮かび上がってくる。
林檎一点を見るようであって 金属球木片なりロープが這っているその空間。
名もなきその空間。林檎もロープもあってないようなその空間。
どこも見てないようであって、全てを見れているような状態。
陰、影、湿気、空気、光。
そのような状態にあって 鉛筆や練り消しを動かしているとき 椅子に座る自分までもが 空間に溶けてしまったような 幸福な時間。
実作業としては林檎のみを描き込む時間は確かにあるのだけれど 結局は全体というバランスの中での 林檎。
林檎ひとつだけであったとしても、
余白に影という影響を落とし余白に形状や意義を与えているのだからね。
結局、自分ばかりだ。孤独だ。と思っている人であっても お母さんのお腹に「あなた」という概念ができた瞬間に誰かに漏らしている。
林檎以外が多いほど 難易度は上がるのだろうけど
世界が広がって リッチな絵になるのだろう。
「人を生かすことによって 己が生きる」