お盆に、スペインから一時帰国した友人と喫茶していた。
「日本 まだコロナやっているの? という感じ。
体調が悪ければ仕事を休んで寝る。元気なら行く。
ただ、それだけだよ..。」
とボソっとした声で 話してくれた。
そして抱擁し さよならをした。
本来、そう。
体調が悪ければお布団で寝て
元気になったら活動する。
シンプルに それだけ。
目に見えないものやカラクリは この世に無数にあるのに、それのひとつに名前と数字をつけて 過剰に意識をする。
そこに存在はあるのかな。
一度、切り替えられた習慣は西の各国より持続しやすいのは 日本は極東に位置する国だから、なんだと思う。
東は木気で、守備本能の場所である。
木気は湿。湿度も高し。
東の気を帯びている国なんだ。
守備本能とはキープである。
キープとは 何も足さないし 何も引かない。
守備本能が強い この国は「うぃず ころな」とスローガンを掲げ 政治・テレビ・企業・学校 をとおして国民に周知して、皆んなでよいっしょっと、と取り入れた策は、そこに実際的な効能がないことをなんとなく知っても 長いこと離さない (離せない)
いまある対策の効能の ほとんどが「咎められない」という守りという効能になっている。
形ばかりにしがみついて(東は有形の場所) いると
目に見えない何らかが腕から そっと漏れていく。
これは効果があったのかな?なぜ?どうして?という智力と思考力(北方・無形)
両親(北方・無形) の旅立ちのときに傍にいれない。
こども(南方・無形) は大人時間を生きているのではない。
赤ん坊ほど 1日1日が大きな学びなのだ。
「話者の表情・雰囲気」 と 「出来事・事物」の関連づけ作業を脳内でしている。以前たてた仮説を検証している (あ、これは リンゴ ではないらしい)。目だけでなく、口の動き・顔という表情全体の動きをみる必要があるから、わたしたち人間は生まれつき「マスク」が肉体に備わっていない。
「○○に負けない!」という紙切れ。
それは「負けない立場に居座る」、という暗示。
負けないと強張ること、と実際的なことは世界が違うんだよ。
闘いの場があったとして 実際的に「勝ち」たいのであれば、東方から西方にパッと引かないと。
ゆるめる・やめてみる・それでも難があれば違う方向にトライする。
それを提案しても 不動。
もうずっと「負けない!」と言い続けていることの方が快。
西方は攻撃本能(闘争・行動力) の場所でありながら 休息と家庭の場所でもある。
家庭という休息の基地があるから メリハリのある攻撃をしかけることができる。
美なる闘いは、短期決戦にある。
パッと攻撃をしかけて パッと引く。
戻る場所もなくグズグズと攻撃がつづいている状態は、それはもはや攻撃でなく維持である。
そういうわけで、日本は残業が多いんだろう。 仕事を居残りすること自体を悪だとはおもわない。 ただ、資本主義的 西洋の企業システムが 日本に入ってきたから 残業の多さが不自然になってくる。 この企業システムというのは メリハリのある西気質をもつものにとっては順当で 東の気質をもつものにとっては矛盾になる。 本来は、休日もなくて 毎日が仕事で毎日が休日のような。 農耕の世界のような。 一個の人間が、仕事で休日であるような。 そういう働き方が日本人には合っているのかもしれないと私はおもうのです。
アメリカ・ヨーロッパは 西側なので短期決戦だ。
もう感染者数を数えていないというし
マスクもパッとやめにした。
西方は金気で、つまりナイフとか刃物でもあるんだけど、ナイフは対象物がなければ鞘に入っているでしょう。
肉を切り終わったら収めるでしょう。
役目を果たしたり 無用だとわかったら やめるんだよね。
西洋人とて、守備の国に (特に3年以上) 滞在している人は、マスクをしている人も多いんじゃないかな。
3年ほどしたら木気がよく染み付いてくる。
土地の気が 人を西洋人にも東洋人にもさせる。
「引き」に転じることができるのかな。
東・木気の趣が
裏目にでているようで 悲しくなる。
お母さんを好きでありたい、ように
生まれた祖国を 愛したい。
木気を剋すためには金気が必要だ。
金・西方・燥・攻撃本能
… 配偶者・私(公に対しての)・家庭・休息・闘争・勇気
公よりも私(プライベート)を充実させる。
遠い誰かのニュースや 数字より
今日のランチは何にしようかなー、お風呂に何入れようかなーだ。
あ、これいらない。とおもったら
スパッとやめて様子をみる。
西洋の影響を受ける。
形という器に気が入る。
人間もそう、肉体という器があって、
国の気・土地の気・親兄弟の気・友人の気などが入って 自己が育つ。
算命学でも気が入った 3歳くらいからやっと占いの対象になる。
まずは形。形を変えれば気も変わり、
全体の形も変わってくる。