心の中の小さなあの子




引っ越してきたこの土地で、整体院をさがしていた。

整体院でおきた不思議な体験をきょうは書いていこうとおもう。




8年前、大学を卒業して神戸六甲に住んだ。

その神戸で、引っ越しギリギリまで通っていた整体が 自分にとってベストであったから長く通っていた。

整体師はわたしの母親と同い年くらいの 60代のおばさんなんだけれども
彼女の整体は優しく、揺らして撫でるだけなのに 術後は身体がフワッとして地に足がついた。

喋りたいときは何となくお喋りがはじまるし、眠りたい時は静かに施術してくれる。

絡まった毛糸の核心部には触れず 全体をゆらして いつのまにか解かれている。
施術もそうだったし、彼女自身のコミュニケーションの仕方もそうだった。


これを同調というんだろう。
優しい手に触れられたら 筋肉や膜も優しくなる。




もうずっとこの整体院でいい。

引っ越しで遠くなったのだから仕方がない。

同じ療法の、代わりになる場所はなかろうか…

いろんな整体にいってみた。




「揺らす 整体 千葉」「撫でる 整体 東京」

そういうワードで検索をして、なんとなくいいかなあという場所をみつけたので予約をした。






施術者は わたしより少し年上の 30代半ばくらいの男の人。


「施術では身体にほとんど触れません。気功をつかいます。」




ほお! 触れないのかあ…
固まった肩や首に 触れてほしかったなあと思いつつ、気功の施術に好奇心がでてきた。



「気功、知っていますか..ね?ご経験は?」



本についてたDVDをみて、こういう感じで、(体操のように) やったことはあります。
あと、手と手で練っていくと温かい抵抗感とか。



「そうです。ならよかった。」





わたしは視覚過敏もあってか10代のころから眼精疲労になりやすい。とくに美術を始めた高校生のころからだ。ひどいときは頭痛がする。


問診でもそのことを書いた。

整体師いわく、私の場合、姿勢とか骨格とか器質的な問題ではなくて
人などのエネルギーを受け取りやすく、他者と自分のエネルギーの線引きができていないのが根本にあるという。そこを解決しないと、いくら肉体整体しても意味がないと。


「人混みにいくとクラクラしたりする?」


します!
とくにクラっとするのは、カフェとかで緊張感のある他者と1on1 で向かい合っているときとか、目をじっと見つめられた時…。そういう日は数時間お布団で眠っていたいくらい疲れてしまう。(会う人によるけど)


「うんうんうん!うちにきてる声楽科の子もそうなんだよ〜。音楽とか芸術とか、そういう世界の人たちは 感じやすいんだよね」



そうですか。


いままで原因として「そうだ」と分かっていたことを専門家に言語化してもらえて楽になった。



ということで、本日は 肉体的なケアをするのではなくて エネルギーを流す(?)ことからはじめるという。




「内臓からみていくからね。そこに仰向けになってください。」



横になって目をつむった。



もう終わりまでずっと、目をつむってるだけでいい。



そわそわ。ドキドキ。何か体感はあるのかな?
内臓になんか問題があると言われたらどうしよう。



身体におこる変化を感じようと感覚を澄ます。



先生が私の上で シャシャシャっと手を素早く(多分)交差させたり ほどいたりしている。





先入観かもしれないけど、なんかキテイルような気がする。
先生がN極だとしたら私がS極のような、ときとしてN極とN極のような。
勘違いかもしれない。
でもそれがお腹、手、と移動しているから先生がアプローチしている場所がなんとなくわかる。


気がしていると….


絶対気のせいではないピリピリ感が両手にきた。
それは奈良にすむ整体のマスターと行氣法を一緒にやったときの、終わった後に先生がわたしに手をかざしたときのピリピリと一緒だった。






体感の観察にも少し飽きて、まぶたの真っ暗の中でぼーっとしていた。



ぼーっとしていると、ピアノの先生のおうちが頭に思い浮かんだ。

実は、わたしは3歳のころから高校生までピアノを習っていた。


頭に思い浮かんでいるのは母に付き添われてはじめてピアノ教室に行った日の情景。


10畳くらいの部屋にグランドピアノがぎゅぎゅっと2つならんでいる。

天板はガラス、ラタンでできたテーブル、それにお揃いのラタンのソファがある。そのソファの小花柄、座る部分の綿の厚さ、ソファの後ろのガラス戸棚の木目。ぎっしり並んだ楽譜。メトロノーム。灰色のカーペット。


なんだか細かな質感までよく映る。


ピアノの安井先生が楽譜ノートに「音符、ドは、こうかくんだよ」という感じに、楽譜風のノートに書き方をわたしに示す。先生が音符の丸い部分を たまたま2周かけてグリグリと書いたんだ。わたしはお他所の家でくつろげるような無邪気な子供ではなかった。間違ってはいけない。間違わないようにグリグリがここでは重要なんだと思って 2周、5周、もう何周もグリグリグリする。

安井先生もママも「もういいんだよ。できているよ。」と私を前のめりで止めている。

なぜできている?わからない。だって先生は何回もグリグリしてたじゃん。


ついで、シーンは幼少期に暮らしていた畳の部屋になった。


長押の木に一部西日がさしている。
母と向かい合わせで両手を握っている。母は緑のチェックのワンピースを着ていて、お腹の中には妹がいるから大きい。










「はい、では起き上がってみてください」






身体がどこまで曲がるか、手がどれほどあがるか先生とチェックをした。




「きょう出来たことは、身体をしらべると3歳のときのあなたがいて、それを流しました。3歳くらいに受けた緊張感がまだ身体に残っているのと、家系から継いできた緊張感もありますね。」





まさに、まぶたに浮かんだ状況は、3歳-4歳のものだった。
なんの脈絡もなく眠りの前の単なる空想のようにやってきた。





偶然かもしれないけれど。



先生には出来事を言いそこねた。



身体は、フワッとしたような….?







次の日、北海道へ



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