「だって」のつづき



自身が人の親になる前… 2016年くらい
« 毒親 » とか «アダルトチルドレン» という言葉を知ったんだっけ。
セラピストのブログばかり見漁ってた時期があったから。


先日このような本を初めて手にしてみた。

昔から興味ないわけではないのに、こういうの読むのが怖かった。

自分の家族の在り方が レ点 だらけになってしまうことは「ほら」と悲しいし、
知ったところで そのコンプレックスをほどく作業も億劫におもう。




理由は、夫に対する 自分の辛辣さだ。


ことしの夏、環境が劇的に変化した。
夫と私の仕事のかたち・引っ越し・子どもの入園。
衝突することが多くなった。
衝突というか、わたしが体当たりしてるだけなんだけども。

夫にだけは言葉選びしない。脳から直送された想いや感情を梱包せずにぶつける唯一の人。
命式でも鳳閣(中央)が牽牛(西方)を剋してる。夫の命式では私は生じられているのに。


↑ 3年前に描いた辛辣漫画みつけた


モラハラなんではなかろうか…?



ねえ、わたしって、モラハラ?
これ過去に何回も問うた。


「ナナハラ。」


なるほど。ななはらね。(ななこ、という名前なんです。)



わたしがナナハラだとして、
ハラの原因は幼少期の親との関係に遡る、という情報をツイッターでみかけた。
(ツイッターってたまにギョッとするんだけど、日常生活上でふと気にかかったことへの回答が、他者のツイートによって流れてくるんだよね。それが自分へのお守りの言葉になったりしてさ。アマゾンやグーグルとかで検索してないのによ?)




もう不可避。

アダルトチルドレンとか、そういう本を買って向き合ってみようぞ。



半分くらいまで読んだんだけど、意外なほど平然と読んでいる。



なぜ。



ああ、これは算命学に向き合うことで自分へのケアがおわったのだ。

がむしゃらな母と、小さなあの子は「腑落ち」というふうに、溶けてしまったんだ。と手を合わせる。


« 宿命天冲殺 » という在り方を知って、救われたんだっけ。






「“だって” じゃない!!」


母に叱責されるシーンでよく言われたもんだ。

だってじゃない。笑

だって、のその先はいつになったら言えるんだ? わたしのタームは?

自分の考えも 経緯も説明できずに 強制終了される言葉である。

正座する母。正座する私。顔をあげたらおっかない母の顔があるだろう。畳の目をただ見つめて、心の中で「だって..。」
大人のアンフェアさに対する怒り 疑問 理屈 をひとりで自問自答すること十年….





こうして天南星が練り上げられたんだわ。



天南星のベースは矛盾に対する怒りだ。

怒りの種をみつけ、それと格闘するうちに、
なんらかの法則とか自分の信念みたいなもんに出会う。


いま、この鍛え上げられた 天南星がいい仕事をしてくれるさかいに。



母や実家から「離れたい」と熱烈に思わなければ あの家を出ていなかっただろう。

当時よりも、今、自分の人生に安住しているという自覚があり
離れたいと思える土壌とその資金をつくってくれたことに 感謝の気持ちがわいてくる。




あのときはあのときで、辻褄の中にあったのだ。



そうでもなければ赤い流れのなかで、わたしはいまだに赤かったことよ。






「ママ、今日こんなことがあってね。」

「彼氏ができたんよ。」

「原子ってなくならないんだって。」

「じゃあママもわたしも昔は宇宙に漂っていたんじゃない?」

「ばあばに一万円もらっちゃった。」



ああ、しゃべりたい。「だって」の続きを伝えたい。




悶々 悶々 の蓄積。

蓄積が大きければ大きいほど、前進のエネルギーとなる。

そうして放たれた 幼少期の伝達本能と天南星のエナジーが

このブログで いまだに飛行の力になっている。



自分の考えを、
算命学をつかった思考の遊戯を
ささやかな日常を

この場に漏らすことによって
小さなあの子はケアされつづけている。


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