占いが足枷になるとき



はじめてプロの占い師に占ってもらったのは、大学3年生の頃でした。
神奈川の橋本に住んでいましたが、京王線に乗って 渋谷までいきました。


タロット占いです。


送り主不明の 贈り物のつつみを開ける前のような気持ちで占い館の 狭い階段をのぼったことを憶えています。5000円で すごいものを購入してしまった、とドキドキしました。


そのあと早速タロットに興味をおぼえて Amazon でカードと指南書を注文しました。



大学の授業から帰っては、本をみつつ カードを展開しまくりました。タロットカードは通常 78枚ありますが、新しいカードに遭遇するたびに カードの意味を熟読して その1枚と知り合いになるのでした。自分事を占っているため、ささいなことでも必死に意味を汲み取ろうとします。



わたしは今、タロットではなくて 命学の占いを追求しています。





タロットは卜占(ボクセン) 。




歴史の授業で習ったかと思いますが、大昔は亀の甲羅を熱して そのひび割れ方をみて吉凶を占っていました。その、亀の甲羅が割れる音「ボクッ」が、ボクセンとよばれる由縁だそうです。

卜占は 同じ質問であっても 次回には出現するカードは高確率で変わり、解釈も変化します。つまり参照する対象(カードの面) が変化します。



けれど 算命学や四柱推命など 命学は 参照物としては不動。来年に命式をみても中心星の符号が変わることはないし、後天で回ってくる気も順番通り。

変化するのは、
生身の人の心と
心によって動かされた肉体
行動によって移ろう環境


わたしたち占者の手元にあるのは不動の宿命だけであり
うつろう心と環境については 相談者さんの話を実際に聞いたり その人を観察することによって、やっと不動の宿命が生きてくる。教科書通りの鳳閣星が その人の文脈においての鳳閣星になってくる。

環境は1日単位でガラっと変わるものではなく、徐々に徐々に変わっていくものなので
命学は 頻繁なリピートは、通常 適しません。

けれども命学は 1回の鑑定が宝になります。それを応用できるからです。



心は、本人でも捉えられることはできない領域で、知性によって把握しようとしても到底つかめるものではありません。つかめたとしても、その「つもり」になっているだけです。けれど どこにでも滲み出ています。



タロットは、この心だとか 環境を
もっと遠くからくる何らかを
スパッと投影するツールなのだと思っています。

環境は移い、心は刻一刻と変化するだろうから、「知りたい!」という欲望がある限り
なんどでも切り取ることができる。なので欲した時に何度でものぞくことができる。




何度でも。



そこに危うさがあると 私は思っています。
タロット自体が….というわけでは一切なくて、

行動する間も無く、心情を観察することに没頭してしまうことに。
それが目的になってしまうことに。


知らないものは一刻も早く知りたい!いたたまれない!
人生の意味を。今日という日の意味を。あの人の気持ちを!

これは人間の性分である。



形のないものを言語化されると、受け取る人によっては、「そうなんだ」と縁取りができてしまう。


よく、タロットは直感だというけれど
それをお伝えするには必ず知性を介す。

受け取る側も知性で受け取る。



どの占術でも、その「占者と私」の知性の枠内において ご自身が解釈されるということ。





占いは面白い

霧、思い込みを吹き飛ばしてくれる

人生を安心して味わうサポートをする



でも予想を超えることも十分ありうるのです。

本来、そう。

不安を味わいきってみるのです。

崩壊に任せてみるのです。

お伝えした命式を忘れていいのです。

もういややー!と力ずくで流れに逆らってもいいのです。

手と足を動かすのです。

溜まったお皿を洗うのです。

何もかもしんどくなったら 思いっきり寝てみるのです。さぼるのです。




そこに ハッとホンモノがあらわれてくる。


そうか、
こういうことだったのか。

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