よく利用する近所の喫茶店があります。利用客の半分は年配者で、会話がBGMとして否応なく耳に入ってきます。
さきほども喫茶店にいて学習などしていたのですが、60代のご夫婦が4メートルくらい先のテーブル席におりました。
もっと広いテーブルがよかったらしく、店員に「消毒が手間なのに、ごめんね」とゆって横の、広めのテーブルに移動していました。
ご夫婦に注文の品が届いたのですが、届いたカップのうち片方が間違えていたのです。店員のミスでしょうか。
するとマダムが「間違えたのはマンデリンの方? それならいいのよ。主人の方だったら変えなければならないけど、わたしはなんだっていいの。」と。
店員が「いえ、マンデリンを追加で作り直します。申し訳ございませんでした。」と何度も伝えるけれど、マダムは「いいのよ。2杯も飲めないから。このままでいいわ。気にしないで。」と。「わたしたちの言い方が変だったのかもね」と穏やかにご主人とお話しされていました。
そのやりとりを聞いていて、わたしはマダムの配慮を清々しく思っていたのですね。
次いで、サンドイッチが届いたんです。店員さんが去ってから、しばらくしてご主人が「なんかスカスカじゃねえか?」と。するとマダムが「ほんと、スカスカ。」
注文の品が届いて10.20分は経っているのに「わたし、マンデリンって言ったわよね?」「確認もしてたわよね?」「わたし、酸味が少ない方がいいのに。これ、すっぱいわ。」とコーヒーにも食事にも、文句をポロポロとご主人と言い合っていた姿がありました。
徹底されてないない外柔内剛は《醜》
内なる感情はどうであれ、自分の口から「もう大丈夫よ」と他者に許しの姿勢を表現したのであれば、それ以後の不快な感情は自分内で感じていくものであり、本人のいない場所にて集団で外に漏らしてゆく姿はみっともない。
そうなるくらいなら、はなから外柔をしなければいい。
「マンデリンにしてください」と一言、申せばいい話。
「大丈夫」と言ったものの、あとからジワジワくることは、どなただってあることです。
自分の怒りのポイント、あとからこれは怒りに変わってしまうだろう、というささいなポイントを把握していることですね。たかがコーヒー 1杯にですら。
自分の欲を抑え込むことはその時は美徳かもしれませんが、結果、害になることもあります。
外柔内剛が美になるときは
自分の行動に全て責任を負う覚悟をもって人と和すること
自分が選んだ結果、テーブルに置かれたコーヒーを黙って呑むことです。
本音や欲はその都度発散されるか、蓄積される。
燃焼された欲は、凪(空)を残し
蓄積された欲はのちに大きな行動力となります。
怒るエネルギーをぶつけるのもバカバカしい相手であればサッと身を引くこと。もう関わらないこと。話が通じない人とは、もう通じませんから。
五行説も、同じ土俵にたたなければ、相生相剋関係も生まれません。
「こうしたかった」という欲を与えられた環境条件で消化していくことは、卑しい姿ではなく、高潔な姿。けれど少しの勇気が必要です。