午未天冲殺と子どもとの関係の妙「最愛だけど腹立たしい」





午未天冲殺は方向でいうと南方が欠落しています。南方は子ども・目下の場所。十大主星だと火性の鳳閣星・調舒星のニュアンスもあります。天冲殺は、空間の欠けのことを言います。そして欠けている場所こそ、その人の弱点であり欲望となります。そこには不自然さがあり、計らいをもって手を伸ばせば、ぎくしゃくしてしまう。

午未天冲殺の場合、南方が欠けているので、それを補うように瞬間、北方に傾きます。北方は両親・目上の場所であり、水性の龍高星・玉堂星。


北方の意味する龍高・玉堂のニュアンスを手段として、欠である南方と接点をもってゆく。




そうだよな。と思うのです。


子どもをもつ午未天冲殺の人は、知性でもって子育てを楽しみ苦戦している、という印象。そして子に対し 期待も執着も薄く、一歩引いた眼差しを向けている。自分は自分で、子は子。当然、全く異なる人生を歩むという前提。



偶然にしては面白いことがあり、

わたしが2019年に初めて子どもを産んで、生後1日目の「おめでとう〜」の言葉を頂いてから、夜も朝もないような日々にずっと連絡を取り合い、かなりイケてるアドバイスを投げかけてくれていた友人が二人いまして、その二人とも午未天冲殺なんでした。(その当時は午未天冲殺が南方欠落、子ども縁云々..とは知らなかった)



そこから事あるごとに、彼女たちと子育てのノウハウを共有しています。



何が面白いって、午未天冲殺のわたしも彼女たちも「布おむつ」という選択をしたんんです。紙おむつが普及しているこのご時世に。保育園からの指定がない限り、布おむつを選ぶ親御さんって50人に1人もいないんじゃないか….


友人二人に接点はありませんし、互いに「布おむつしようね」なんて約束もしていないのです。

紙であれば、汚れたらクルクルしてポイなのですが、布の場合は桶でつけ置き→ (取れなかったらゴシゴシ) → 洗濯 → 10-20枚を干す → 畳むという毎日のルーティンができます。これがまた手間がかかるのです。産後のハードモードの中!

なんでそんな、わざわざ面倒な方向に向かうのかというと、子どもの世界に飛び込めぼ飛び込むほど、午未天冲殺の親御さんに哲学的な学問的な何か [精神の過去=北方] が 大いに育ち始めるからだと推測しています。じゃなきゃこんな面倒なことしない。何かこの「布おむつ」という精神性に惚れて、実施するんですよ。現実/肉体的には面倒だもの。

しかも3人とも楽しんでいる、布おむつを。あのメーカーがいい、このメーカーはダメだった、自分で作った!とか。
楽しいんですよ、布おむつ…。国内から海外の布オムツカバーをいろいろ試したり(ドイツのカバーが可愛かった。漏れるけど。) 赤子が泣き叫ぶ中、パンッパンッと広げて放射状の物干しに白い布を干しているのも、それをきれいに畳むことも。



本来、赤ちゃんを産んで育てるという行為[火性] は、知性[水性] と相剋関係です。そして表裏一体でもあります。体感としても産後は記憶力も思考力も読解力も恐ろしいほど減退します。10秒前の「あれ買わなきゃ!」がぶっ飛ぶ。ただ乳をあげて命を守るのみ!という感じに動物的になってしまうのです、特に女性は。

妊娠中に助産師さんに言われたのが「頭であれこれ神経質に考えがちなときに、切迫早産になりやすい。おおらかなお母さんが割と安産傾向だ」と。助産院に通って助産師さんの話を伺ったり、助産院の本棚にある本を読むにつれて「妊娠出産とは 知性が通用しない」と察するのでした。

知性が通用しないピークが陣痛出産時だとして、子どもが成長するにつれて、逆に 北方現象 に助けられ楽しんできました。特に午未天冲殺の人はそうじゃないかな。



育児日記を綴ることで自身の考えを可視化したり、(ある意味マニアックな) 昔ながらの子育てや、モンテッソーリやシュタイナーなんかにたどり着いて「へえ!」と子どもそっちのけで知的好奇心が湧いたり、子どもを利用してその世界観で自分が学ぶことで 南方世界に飛び込んでゆくような。多分「ママ友」と砂場であーだこーだ話していることより、こうやって龍高・玉堂的な飛び込み方の方が楽なんかもしれない。

わたしの父もまた、午未天冲殺でしたが、わたしが中学高校と学年が変わるたびに全く同じ教材(数学チャート式だとか) を揃えて、自分が勉強しなおしていました。それを思い出します。そしてわたしの理科の自由研究をマネージメントして楽しんでおりました。完全に子を「ダシ」にして楽しみながら学んでいたと思います。笑

午未天冲殺の子どもとの共存の仕方とは、子どもを育むというより「子どもで実験観察する・自身がそこで学んでいく・子どもに知性(無形)を与えてゆく」という在り方。あるいは子のことを完全に「よそ任せ」にしてしまう。


そのあり方が改良法として自然。



午未天冲殺のお母さんの多くは子に対しある意味「ツン」としている雰囲気があります。


内田也哉子 (エッセイスト)
坂本フジヱ (助産師)
椎名林檎 (歌手)
ターシャ・テューダー (絵本作家)
林真理子 (小説家)
マルタ・アルゲリッチ (ピアニスト)



アルゼンチン出身のピアニスト、アルゲリッチと、その家族のドキュメンタリー『Bloody Daughter』を一年前に観たんです。彼女、それぞれ父親が異なる3人の娘がいるんですよね。このドキュメンタリーは実娘が撮影しているのでパジャマ姿のアルゲリッチや、演奏前に「もう無理っ!!!」とはちゃめちゃになっている無為自然のアルゲリッチ、ただのんびり歩いているアルゲリッチをみることができる。

映像の始まりは分娩室。静かな産院で、孫の誕生を静かにソワソワして待つ姿。これがいいんですよ。


映画では3人の娘が母であるアルゲリッチに大きな影響を与えられ、大きく振り回されているような描写で、娘らからしたらそうなのでしょう。
アルゲリッチの陽占の相性相剋をみてみますと、南方(子)が中央(自分)を剋しています。また、南方(子)が自分のやりたいこと(仕事=演奏)を剋しています。アルゲリッチこそ、南方現象に手を焼いて振り回されている印象。

午未天冲殺かつ子どもと自分、子どもと仕事が相剋関係。そして同時にこのキャリアと栄光。3人産んだのなら、自分が直接育てるより子を育てる人や場所がとっかえひっかえすることはむしろベストだったのではないか。自分と子を守るために。

じゃあなぜ産んだのか、というと


「それでも…絶対に産みたかった」


この気持ちがわかりすぎて震えるんですけど。



南方は鳳閣・調舒。調舒は間接的な伝達本能ですから、自分の思いを表現するのにワンクッション媒体が入ることに良さがあります。それが文芸なりダンスなりピアノなり。

ピアノにでさえ剋されている。つまり、子どもにも音楽にも振り回されている。
どちらも彼女にとって修養の場だったんじゃないかな。演奏前の彼女を見ればわかる。


午未天冲殺は、子どもと目下、どちらにも恵まれないということはほぼ皆無です。これ、南方現象の「調舒」も、この条件に含まれるだろうか。だとしたら彼女は調舒の世界で能力を発揮しているのだから、子どもとは縁が薄いのも自然なこと。





『Bloody Daughter』

Bloody ” is used with irony; meaning beloved yet exasperating.



Bloody 最愛だけど腹立たしい。



この原題。ここに妙味がある。


(けれど邦題には神秘性のかけらもないのです。)


さ、わたしも今から Bloody を迎えにいってまいります。(16:04)
最愛だけど 腹立たしい。








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