「読み聞かせ」という言葉に含まれた大人の欲望と虚気のはなし




宿命のみで、その人を100%言い表すことは不可能です。


   人間(一極)
↓       ↓
(陽) 霊魂   (陰)肉体

算命学では今生きている私たちは 霊魂と肉体 の交点(=中央)だと捉えます。人間を一極とし、陽を霊魂、陰を肉体です。

生年月日から命式というものが表出しますが、それは《実気》といって霊魂の「核」でしかないのです。人体星図に表出する「貫索星」だとか「車騎星」だとかいうものは、生まれ持って変わらないエネルギー= 実気。

人は、生まれたら外界と否応なく接してゆくことになります。いろんなモノと、いろんなヒトと、いろんな出来事と遭遇するうちに、ウブな状態《実気》に、外部からの影響で《虚気》がグルグルと巻きついてゆく。

本質=実気に、環境からの気=虚気 がまきついたものを総じて 霊魂 と言います。 だから命式から想定される人物像と、本人があまりに異なっている場合、(算命学思想に於いて) 虚気の影響がかなり強いとみます。それで本人が満足しているのなら構いませんが、そうでなければ工夫が必要です。




たとえば実気、鳳閣星の人が戦場の国に生まれ 兵士としてかりだされたら、おおらかでのんびりな性質をもっているにも関わらず戦場の国という気によって「闘うんだ」と虚気となり霊魂に入ります。

兵士仲間に 創意工夫した戦闘メシを作って提供したり、狙撃手に情報伝達する観測手として活躍したり「鳳閣」的な面を押し出してうまいこと発揮できればよいのですが。
「っしゃあ!攻撃するぞ〜」とみなぎる金性を帯びた仲間に「狙撃終わったら、メシ何にする?」という一言で「火剋金」と士気をを下げるかもしれない。


さもなくば自分の本質を無理に閉じ込めることに。そうすると本質が不完全燃焼となり不満が蓄積します。不満が蓄積しピークに達した頃、何かがきっかけで本質がドバっと、爆発します。「ああ、もういいやしらないもうしらない」とずっと布団で眠っていたいような、鬱状態になってしまうかもしれない。


これ、親子関係だったら

動いていなければ気が済まない金性的な両親に、鳳閣的な子が生まれたら。のんびりが持ち味なのに、定刻による早起きを強いられ、ごはんのペースを急かされたり。毎週毎週キャンプや公園、支援センターのイベントに参加。そして実気鳳閣に、親(金性)という気がまとわりその子にとっては虚気となります。「早起きしなきゃいけない。」「なまけてはいけない」と。
もしかしたら、その親御さんも鳳閣が実気なのに 彼ら彼女らの親に「早くしなさい」と言われた姿かもしれません。


先日、子どもと公園に行ったら、近くの保育所の子育て支援の先生たちがきていたんです。定刻になったら大型絵本の読み聞かせをすると、先生がわたしの横にきて教えてくれました。

たしかに、いつもは2,3組しかいない公園が、なるほど、その日は10組以上も!



わたしと息子はダンプカーにひたすら砂を詰め込んでいました。20分前に西松屋で買ったこのダンプカーを砂場で使ってみたくて、遠くのこの公園にきたのです。

しばらくすると モモちゃん という3さいの女の子と、そのご両親が砂場にやってきました。モモちゃんは砂場道具を持っていなかったので、他の子が放置していったシャベルやカップを触って、お母さんに「あかん!!」と注意されています。なので、わたしたちの道具をドウゾして一緒に遊びました。



「ほら!モモ!大きな本が始まったよ。行かない?」とご両親がお誘いしますが、モモちゃんは「いやだ!本なんか嫌だ!」と拒否。


モモちゃんたちの会話で、読み聞かせ会が始まったことを知りました。ふりかえると砂場や遊具にいたたくさんの子どもと保護者は公園の木のまわりを囲むベンチに移動しています。一応、息子にも「本だって。あそこいく?」息子の答えはNO、ダンプカーにMAXになった砂を斜めにして下ろす作業をします。



読み聞かせ行かないのは、わたしたちとモモちゃんたちだけ。

「モモ、いこうよ〜」「だるまさん(の本)、同じの持ってるよね!」とご両親。

「いかない!いかない!いかない!」

「じゃあポテト食べにいこっか!」とお父さん。

「ポテトたべない!」とモモちゃん。



とにかくお砂場残留に執着を示す彼女。
イヤイヤの成れの果てなのかもしれないけど、本の気分じゃないなら、それでいいのです。




「読み聞かせ」って言葉、わたしが小学校低学年の頃からよく耳にしていました。小学校でも家庭でも。「読み聞かせが大事」とかさ。そしてそんな「読み聞かせ」という言葉に含まれた大人の欲望というか教育じみたニュアンスというか、妙なイヤらしさを、小学低学年の自分ですら、言葉にできない濁りみたいなものを感じ取っていました。母親がいう「本なら買ってあげる」という本信仰も本当に謎だったし、学校や親からの「推薦図書」というものは文字がデカくて、品行方正で、ワクワクがなくて、ただ子供として文字を追っているような感じ。本を読んだ子はポジティブに捉えられて、そうでない子は「本を読まない子」と溜息をつかれる。

これはわたしが小学生をやっていた 1990年代の話だけど、今はどうなんだろう?
自分が子どもを産んで、保健センターでも最初の6ヶ月検診は「絵本が大事」という話で、市から2冊絵本を頂いた。

絵本が好き、読んでもらうこと自体がセラピーになる、ということはそうであると思う。絵本を乳幼児に提供してやることは、もはやマスト。言葉やコミュニケーションの獲得に、情操を養うために絵本は重要な役割をもつ。

絵本を読むことや与えることは大切だけど「読み聞かせ」というその行為が先行したらアカンなと思う。子どもに好き嫌いやペースがでてきて「本読もうか?」と言って、気が向かないならそれでいい。


子供は鈍感じゃないから。若年期に天南星・天禄星をもっていたり、中心星が鳳閣星の子どもは、結構冷ややかな目で大人を観察したり批評する質をもつ。中心星が龍高星の子は、知的好奇心たっぷりで、しかも大人びてるから「推薦図書」じゃ物足りないかもしれない。

また、白い画面に黒い文字が並んでいることが生理的に無理な人もいる。感覚過敏で白い画面が眩しく感じすぎるのだ。またはディスクレシアと言って文字が歪んで見えたり、バラバラに見えて、気分が悪くなる人もいる。


とかくいろんな質の子がいるのに、子どもは無力で、お母さんが好きで、大人のいうこと=そうなんだ、と思ってしまうから「子どもらしさ」を演じてしまうこともある。これが無意識のうちに《虚気》になっていく。本が好きで優秀なわたし(虚気) 本を読まないダメなわたし(虚気)



ちなみに、子どもの頃は「本」が嫌いだったのに、大人になってから好んで本を読む人もいるよ。大人の本は楽しいもの。子どもの図書館にある本とは全く違うもの。何を読んでも自由だし、自分が最も欲しい情報を自分で選択することができる。「推薦」されなくていいんだ。誰かの目を気にして読まなくていい。



推薦図書を調べるとほとんどがフィクション。


子どもが好む=空想・物語

というわけではない、んですよね。例外もいる。子どもが大人の評価を気にせず、大人が子どもを子どもと決めつけず、いろんな媒体で読み物を探せたら最高だよね。


片付けの こんまり は、幼稚園のころから婦人雑誌『ESSE』を読んでいたし、わたしも小学生のころ『女性自身』読むの好きだったな。こういう物好きな子どももおります。






親も、本を好まない子供を不安に思わなくてもいい。


成長したらその子は変わるし、成長するにつれて人生の責任をとっていくのはその子だと思っている。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です