今の算命学の学習方法を記録する


算命学の学習で使っているノートが1冊終わった。ミドリのMDノート。
いろんなところに持ち出して、いい感じにフワフワになっている。

2冊目はLIFEノートのオレンジ。大学の時にスケッチで使っていたから馴染みのノートだ。見た目もクラシックだし 万年筆との相性が最高。けど、クリーム色すぎる。もう少しホワイトに近かったら理想。




わたしは習得するときに 習得したいものをノートに落とし込む手段をとる。

中学生のとき Avril Lavigne にハマって、アルバム『Let Go』の歌詞を全てボールペンでノートに書き写した。浪人生のとき、石膏像の参考作品や巨匠の絵画を模写した。

師匠は「わかってもわからなくてもいいから100回読んでください。」と言う。それはそうとして、読む前に一度書き写す。(まんま書き写すというより自分なりに図を挿すなり表をつくるなりまとめてゆく。) 書き写すことによって「他者の学習」を「自分の学習」に飲み込んでしまう感覚。戦闘漫画でよくいるじゃない、敵を飲み込んでその性質を自分のものにするやつ。自分の匂いをつけるといってもいい。本気で習得したいと思ったときに 誰かがまとめたものを、お客側で読むという受動性が気に食わない。だから一度自分の匂いをつけて自分事にしてしまう。師がまとめたそのレジュメに憑依してさらにまとめる作業だ。100回音読する前にこれをするのとしないのとでは理解度が全然違ってくる。




授業のレジュメや教科書は、師匠たちが高尾宗家や中国古典から汲み取ったものを「どうやったら生徒たちにわかりやすく伝えられるか」と工夫して整理整頓したものだ。国内に於いて習得ヒエラルキーのトップにいるのは日本で算命学をまとめあげた高尾宗家で、さらに高尾宗家も彼の師の呉仁和氏や中国古典から習得した。算命学は儒教・道教・仏教よりも歴史が古い。

目の前にあるのは、何千年も手垢にまみれ伝わってきた他者の学習の集積で、わたしはその末端にいる。書き写すというのは玉堂の学び。


陽は龍高星で直接体験により習得する。自分の体を使い、物事のなんたるかを知る。そして知ったら古きを壊して新しいものを創造する。白を知り得たら赤や青に変えてしまう。
それに対し陰の玉堂星は、すでにあるものを文献や師匠を通してそのまま知る。白を知ったならば自分の内でさらに磨きあげた白にして次世代に教授する。

合理を求める人は、とりあえず書き写すなんて泥臭いことしないと思う。効率が悪すぎる。一般的に習得はリラックスした状態がいい。毎度5分でもいい。気負わず何度も何度もレジュメなり書籍に目を通すこと。まさに「なんでもいいから100回読む」ということ。

https://jp.quora.com/subete-no-gakusei-ga-shiru-be-ki-benkyou-no-ura-waza-to-ha/answers/163635916?ch=10&share=3b69d610&srid=uuDGGz





いつまでたっても道の途中。


「よし。もう大丈夫だろう。いける。」と思っても 目の前に展開されるのはここより高い山。
その山にも いつの間にか登り切っていて「ここまできたら」と思ったら また次の山。


自分はまだまだ蟻ン子だ、と愕然とする。



こんな時いつも思い出すのが バガボンドの108話『てっぺん』109話『雲海』で、主人公 武蔵が 山を登っているシーン。

あるひとつの頂に到達し自分の実力を再確認する武蔵。驕りにも近い気持ちで街の素浪人を圧し折っていく。そして道中、目の前にそびえる山(崖)にロッククライミングのようにがむしゃらに登ってゆく。


登っている最中に 老師の言葉が蘇る

本当に強い者とは何かが分かるのは……
本当に強い者になったときじゃ


そうだなじいさん 天下無双とは何か

そんなこたあ 天下無双になってから考えるわ
とりあえず今はそこまでのぼっていくのみだ

俺はただ
てっぺんが見たいだけだ



グッと力を入れ、てっぺんに到達する武蔵。

てっぺんだ…!
ざまあみろ

するとビュオオオと モヤが晴れて 周囲には自分が登ったものより遥かに高い山、しかもひとつじゃない。 武蔵、唖然としたのち爆笑。

↑武蔵、こんな感じやった




「ここまできた」思った自分は、ちっぽけだと知った。

しかしそれは 登った末にわかったこと。

登らなければ、自分の位置すら知ることはできない。









参考文献: 「バガボンド / 井上雄彦 / 講談社」


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