占星術の的中について一つの考え


算命学は、複雑に見えるものごとをシンプルに捉える技術です。

たとえば 宇宙は空間と時間であるとし、空間 (時間以外の全ての事物)を 木・火・土・金・水 と たったの5分類に振り分けることをします。

算命学で使用する基本分類

2分類 (陰陽)
3分類 (天地人)
4分類 (四季)
5分類 (五行・目にみえる)
6分類 (方向・目に見えない)
10分類 (十干)
12分類 (十二支)
60分類 (六十花甲子)

分類されたもの同士の間にはエネルギーの消長や相生相剋といった法則があります。
法則があるから分類できた、とも言えます。

分類された性質は机上では符号のはたらきを持ちますので、そうなると「扱う」ことができます。陰陽説も五行説もたった一人が発見したものではなくて、大昔の学者さんも含めて、ほとんどの人が「そうだ」と観測し納得できたために、符号や思想は「共通の言語」でもあります。

火に乾いた薪をくべると火が盛る、水は上から下に流れます。
誰が観察しても大抵「そうだ」です。
算命学の法則とはこういった素朴な自然観がベースです。



どうして、素朴なのに、主観なのに、
当ててくるんだろう?と考えます。

だって「樹木=真っ直ぐ。だから、その人の調舒星(独特な感性)はストレートに現れる。」「雨露=細かい・分散している。だからその人の車騎星(攻撃性)は分かりずらい。」ってめちゃくちゃ人間の主観じゃないですか。園児や小学生でも描写できるような。

これを伝えて、少なくとも私のクライアントは「(その性質は) そうだ。」と頷きます。

他の鑑定士さんの場でも同じことが起こっていると思います。
だから算命学や四柱推命、陰陽説五行説の考え方は「使えるもの」としてこれまで続いているのでしょう。

(外野ですが) 西洋占星術だってそうかもしれません。
蟹座を生物のカニの観察… 甲羅が硬いとか卵を抱えているとか、海王星は存在確認の際に想像と計算から割り出されたために「目に見えないもの・夢」という意味合いが付されるなど。

人間の、対象への素朴なイメージが 今でも「力」を持ってホロスコープが続いているのでしょう。


納得は場をつくる


それで

どうしてこういった素朴な観察が力を持つのだろう。

まず第一に
ほとんどの人が「そうだ」と納得してきたからだと思うのです。

身分や時代を超えて、もうたーーーーーくさんの人が陰陽五行説や天体に「そうだ」と感じたから。もう当たり前のように。それこそ水が下に流れるように。疑っていないから。

第二に
個人の中で納得・信念があるからです。
私であれば一つに算命学(陰陽説・五行説) ですが、それこそ水が下に流れるように、ごく当たり前のことだと信じています。納得できないところや占技は捨てたり 改良したり。先達と自分の手垢がついた算命学へとても信頼を寄せているから、私の場には力みたいなもんが発生して、内に入ってくる方は「そうだ」と納得して帰ってくれるのだろうと思います。


この「場」は特別ではなく、誰もが持つことです。たとえば料理。

料理を作る者の中に「信念」みたいなものがあれば、それは場にいる家族に影響を与えます。
彼女の中に化学物質を極力排除した調理が健やかさを生む、という哲理があれば、それは本当にそうなるのだと思います。そのように作られた納得の料理は、家族に力を与えます。

逆に、添加物なんじゃそれ? 腹が減ったから食う。コンビニ飯で何が悪い。という現場のおっちゃんも、それはそれで健やかさを生んでいます。

彼女とおっちゃんに、善悪の区別はありません。



疑っていない。当たり前。
宗教的でもありますが、これが純な納得の力です。


その背景が何であれ、自分が何に納得しているか。
それに忠誠しているかどうか。


だから書店に行くと「肉はやめなさい」「肉を食え」と、正反対の哲理が共存していて、それぞれの著者と読者に「そうだ」があるから、どちらも健やかなのだと思います。




納得は 法 を作ります。
法は水にヒョウタンを浮かべると滝では下に落ちることです。鉄球を入れると沈むことです。


法は「場」であり「国」であり「レイヤー」です。

自分の国というわけです。


納得は一つであるようで 一つではありません。
物心を持ち、これまで生きてきた中で小さな納得が自分の中でミックスされて、独自の納得が起きているということです。
お母さん・お父さん・祖父母・教育・常識・国家・読んだ本・心酔した人・宗教・メソッド・失敗と学習 etc…

誰かの技術を受けたり、一緒に仕事をするということは、レイヤーとレイヤーの交流です。
誰かのレイヤーに入国するということは、その人のお母さんや先生の分子とそれとなく会うこと。

交流する相手のレイヤーに対し「疑い」や「反抗」「腕試し」があると、相手のレイヤーは自分にとって影響が薄れます。

だから他所のレイヤーを選ぶにしても自分が「誰(その国)に納得するか」「何に納得するか」で作用する力も変動します。

Googleマップの星を信じているなら星4.2の整体で体は楽になるだろうし
その整体師のブログと共鳴が起きたのなら星3.1でも好転するでしょう。


納得が淡い場にいくと分かります。
「周囲がそうしているから」「上から命じられたから」「マニュアルがあるから」「こういう時にはこう言うとそれっぽさが出るから」

毒にも薬にもならない、白色っぽい感覚。き


私の中心点はどこにある?



注射を打たない方がいい、と信じている人が 注射を打つ方がいいと思う家族や知人を、強く説得し、ついには憐れむという現象をよく人伝に聞きます。

じぶんが真に納得していれば、他者の納得を尊重し、強引に説得することはないのだと思います。まんまるに完結しているからです。他者が打とうが打ちまいが、その家族や知人が「これでいいんだ」と落ちていれば、それはその通りに守られるのでしょう。

まんまるじゃないから、他者を自分が思った通りにさせ、補っていきます。


その家族に何かあって、動揺するのは自分。
心配は、あまり他者のためではなく自分が動揺することへの守りです。

自分は個体でありながら、上空から見ると血液の赤血球の一粒のような、集合体の一部でもあります。集合体レイヤーの中に個人レイヤーがあります。


自分のとおりに他者も動くべき。という意識は他者も自分の範疇だと錯覚している集合体意識の強さです。

ちなみに私は、夫を自分の範疇だとよく錯覚します。
夫が傷つくと、夫はさておき 私が不快なので、やめてほしいと願います。


集合体意識が強く出ると「○○のせい」が出てきます。
だって他所も私なんだもの。
(ここでの意味は、あなたは私・私はあなた、のそれではない。)


自分は他者を動かせるのでは?= 集合体の意識 = 何かのせい(責任)

自分自身で完結 = 個体の意識 =自分のせい(責任)


親のせい、子供のせい、政府のせい、天冲殺のせい、木星逆行のせいと意識が個体を忘れてしまうと本来からどんどんズレていって、いつまで経っても全体に翻弄されつづけます。それで心が楽になることもあるのですが、中心点が自分から遠のけば 個体は個体としての責任を果たすことを何もしなくなります。

私たちが、ここからここまでが私である という個体意識が備わっているのは、そこに宇宙という集合の一部としての機能であり「個体を全うせよ」ということでしょうか。





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