ドアロックを壁にはりつけ日座冲殺の母を回想する




母は小学校の先生で 仕事熱心だった。平日の夜も休日も、家に仕事を持ち帰る。繊細さが求められるような特別な仕事でない限りわたしは部屋(職場)に共存した。母も子どもがいる中で平然と仕事をこなしていた。

わたしは熱烈に書き物をしているママの足下に潜り込み そこで何もしなかったり はなくそをほったり テーブルの天板の木目を見ていたり。

仕事がノリにのっているらしいときは「あっちいってて!」「パパに教えてもらいな」と言われる。




そして母になったわたしもまた、子どもより作業に夢中なんである。


知的作業と子守は 五行の性質的に相容れない。習得は水性で、子どもは火性なので相剋関係だから。算命学を学んでいくことはわたしにとって確認作業でもある。算命学を知る以前に、この世の真理として掴みかけている、もはや自分の中では当然である法則、いや法則という概念ですらない無形のあれこれを、算命学という思想によって文章化されたような。

「よし」とペンを握ったとたん Macを立ち上げたとたん、背伸びしたらドアのぶをひねれることを知った息子が「う!う!う!」とやってくる。しかも目を輝かせて。わたしを求めているわけではない。自室は何十色ものカラーペン、積み上げた本、ランプ、小さな引き出し、そして飲みかけのペットボトル(笑) etc..があるから。幼児の好奇心をくすぐるポイントがもりだくさんで楽しい場所なのだ。


お絵かきなんかして大人しくしていればいいのだけど、2歳児は物書きの家にいる穏やかな猫ではない。さきほど「んも〜〜〜!!!!!」と、Amazonで購入し放置していたドアロックを設置。


妊娠したころ ママのようなママにならん、と誓ったけど むしろ母の方が許容値が広かったのかもしれない。



「鍵っ子」という言葉を小学生向け児童書で知った。「鍵っ子」という言葉には「かわいそうね」という当時のマジョリティグループ(常識)がマイノリティ(非常識)グループに対して奇異の目をむけたゆえの言葉な気がして。わたしは祖父母がいたけれど、鍵っ子というものはさみしそうだな、と図書室で本をよんで思った。その国の、その時代の、マジョリティ(常識) は子どもにですら染み渡って「じぶんはかわいそう」と感傷の材料にしてしまう。
こどもなりに「お母さんなのになんで?」と「お母さんは母性的であるべし。家にいるべし。」とステレオタイプを望んだ。




算命学を知った今、あのときの家庭環境が実は全てカラクリだったんだなと気づく。

母は日座冲殺ゆえに申酉天冲殺。申酉天冲殺は仕事やお外に向かっていくことがよろしくて、家(=安息の地) を司るような主婦向きではない。日座冲殺は干支番号11甲戌 と 12乙亥 だから、干支番号11〜20番の申酉天冲殺グループに所属している。

日座冲殺もステレオタイプの夫婦関係や家庭であると波乱という、「西方欠落」に着目しているのは申酉天冲殺ルーツなのかしら。


わたしの生家は「まとまらなさ」をもってして「まとまっている」ような気風の家庭だった。共同体ではなく個の集合体だった。


日座は子ども(跡取り) がいないことが望ましい。
きっと母に子ども(跡取り)が生まれては釣り合いがとれないので、二人娘が家系を出ていくような宿命冲殺になったんじゃないかとすら思えてくる。そして私たち姉妹は母と衝突しては「ママのようなママにならん」とふたりで心から誓った。これでいいのだ。アットホームな家庭で 親を憎むこともなく育っていたら わたしの宿命二冲殺も消化できなかったのかもしれない。


そして私から産まれた息子も宿命冲殺で戌亥天冲殺(=はみだし運)。
きっとわたしのカラーとは逆を歩んでいく。それでいい。


このような家系の流れで唯一「継承」されたのは「まとまらなさ」をもって「まとまっている」気風であるところ。そこが面白い。そしてそこに居心地の良さを感じていることもたしか。

んー…ドアノブロックの実力を試したいのに、設置したとたん息子がこないのはなぜだろう!





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