祖母


「ばあばが今、調子悪いらしい。目に出血があって右目ほとんど見えないんだって。」

と妹からLINEがきた。9月24日のことだ。

ばあば、とは母方の祖母のこと。
3年前にじいじが亡くなって、叔父(母の弟・未婚)と二人暮らしをしている。



心臓がドクンとして、ばあばの声を聞くために叔父に即電話。
わたしの母もその場にいた。

「ばあばは、ななこのことをずっと気にしているよ。前にななこが家に来たときに、カンタ(私の息子)のことで酷いことを言ってしまったことをずっと悔やんでいる。」と叔父。

電話を切って、始発でわたしを静岡県の富士宮駅まで運んでくれる列車を調べる。
予約して、翌朝5時に家を出た。





祖母の中心星は《己に入った石門星》庶民的な石門星だ。





そのとおりに、THE 横拡がりな石門 な 女性。


家が貧しかったので学はないが、何かを習得することが好きで 若い頃は編み物の先生をしていたり、ステンドグラス・クロススティッチの制作に励んだり、旅行好きの祖父と友人らとしょっちゅう旅行に行っていた。
ひとりで富士山に登ったり旅行に出かける私に対し「さみしいでしょう」と本気で哀れむ。孤独の楽しみを、理解できないのだ。

1980年代くらいの祖母と飼犬のタロー



2015年 祖父



祖父母の家には、家以外の人が出入りしていていつも賑やか。来客のない日はないほど。

ステンドグラスの制作物が満ちた家に、壁には、孫の写真の他に近所の子供達の七五三や結婚式の写真がたくさん飾られていて、それがまた ほのぼのとした温かい空間をつくりだしている。私も皆もあの家が大好きなのだ。


富士宮市には 富士山噴火を鎮める神さまの総本山、「浅間大社」があり毎年11月には「秋宮」とよばれる大きなお祭りが行われている。

祭りが近づくにつれて 祖母の家はもっともっと賑う。
テーブルを3つも連結して 祭り参加者の昼食場所になった。
わたしは県内の違う町に住んでいたけれど、小さい頃は祭りに参加していた。



2018年 祖父が死去。


「おやじー!!!」と祖父を慕うたくさんの「こども」たちが眠る祖父に声をかけた。


祖父死後も、日中はひとりきりの祖母を案じて近所の人がよく遊びに来ていたのだが。


2019年になって新型コロナが流行。祭りも中止。祖母宅には人もそれほど訪れない、という現状になっていて

精神から崩れたんだと思う、祖母の場合。
精神も身体もぼんやりしたような状態になっていた。

年齢が若ければ若いほどSNSというコネクションに希望があるが、石門星もちの高齢者は 工夫や外に飛び出す勇気をもたないと、この状況は耐えがたいと思う。祖母まわりのお年寄りも2021年に入って訃報ばかりだと母から聞いて驚いている。(孤独が原因かは、わからないが)



わたしが到着したときテーブルでお茶を飲んでいた祖母
「あれ?誰?」

「ななこだよ!」と私

「ああ!ななこ…ちゃん? きた」と祖母が言うから 台所で洗い物をしていた私の母は「ななこはいないよ」と言いつつ 実物を目にして動揺した。母とは正月に連絡を絶って以来だ。




祖母は、祖母の領域を超えていた。

わたしの心の母といってもいい。



封建的な実母には何を言っても(価値観の違いから)怒らせてしまうので
中学生くらいには 早々に、打ち明け話をすることを諦めていた。

1番の拠り所は祖母。誰だって、自分の意見や思想を話したい相手がほしい。
電話のかけ方を覚えた小学生から浪人まで、ことあるごとに祖母に電話をかける。

もう「ばあば」という人物そのものだけで 安心感につつまれる。

赤ちゃんの頃から面倒をみてもらったからなのか。
プニプニした二の腕を「でぶ〜」って言いながら触ることに癒され
痒い背中を掻いてもらうことも最高な気分だった。


母以上の、母。


内緒でお小遣いもずっとずっともらっていた。


浅草旅行で花やしきのお化け屋敷を発見し発狂する私を回収する祖母




浪人生の夏、わたしはパニック発作が突然起きて夜間救急に行った日がある。発作の後は記憶や時系列が混濁というか「また起きるんじゃないか」「私が私でなくなるのではないか」という耐えがたい恐怖があり、アトリエは休むとして 翌日を一人で過ごすことは絶対にできない、と震えながら祖母に電話。両親は仕事だ。翌朝 祖父母が車で駆けつけてくれて、切れ切れになった命綱を引っ張ってくれたというと大袈裟だが、あれほど救われたことはないんだ。





ずっと祖母を好きでいるわけがない。変化はある。



自分が成長し、世界が拡がり、自己確立するにつれて

両親にも、祖父母にすら、「それは違うんじゃない?」「うざい」という気持ちと

それに伴い自分の哲学、自分とはこういう価値観をもっている、みたいなものが育ってくる。こうして多くの人は自己確立をしていくのだと思う。(算命学でいうなら天恍星・天南星の時代ですね。)



嫌だったこと、価値観の相違点を語ったらきりがない。



大学を卒業する頃には、富士宮の祖父母宅にいくたびにトラブルがあり「もうここには来ない」と何度誓ったことか。

私が話すと祖母はすぐに泣いてしまうので、その辛気臭さが億劫で、電話もしなくなった。






わたしの息子が1歳になるころ、満1歳のお祝いのために在来線と新幹線で4時間、1二人旅をした。
ちょうど東京出張の夫とは、祖母宅で合流することになっていた。

この旅は、予想以上にストレスフルであった。息子と長距離を二人きりで移動することは初めてのこと。新幹線では座席に座れていない。

祖母宅につくころには、もうヘロヘロで 夜に到着する母と夫の到着を心待ちにしていた。


お風呂から上がるとき、息子の保湿クリームを取ろうと洗濯機の上に手をのばすと、息子が泣きながらわたしの足にすがってきたので「なんもできないよ!」と足を引き剥がしたところを、タオルをもって入ってきた祖母が目撃
(1歳あたりの息子はずっと足にしがみつくで、ひっついた息子から自分の足を引き剥がすのは、わたしにとって日常茶飯事のこと。こうしないと何もできないのだ。)


蹴飛ばしたと勘違いした祖母は「あんた何をする!!!」「虐待だ!」と血相を変えて怒る。

わたしは その時系列を無視した理不尽さに、爆発。
日中の疲労もあって「老人の言ったこと」と流すこともできず、声をあらげて派手に泣いた。







「ばあばは、ななこのことをずっと気にしているよ。前にななこが家に来たときに、カンタ(私の息子)のことで酷いことを言ってしまったことをずっと悔やんでいる。」と叔父が言っていたことは、この事件のことだ。もう1年半は経ったのに、それでも憶えている。

頭がぼんやりしていても、鮮烈に祖母の頭にのこっていたんだ。




祖母の中の、このひっかかりを解かなければならない。





久しぶりに富士宮駅に降り立った。






祖母はわたしに何度もお小遣いは受け取ったか、案じていた。

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