図書選択論 算命学風味



読書は楽しい。




何が楽しいって?



著者の十大主星を感じとることが楽しいんだよ。



主題、はじめに、書き方、ものの考え方、コンセプト。

本人が執筆したのか、インタビューしたものを編集者が書き上げたものか。

センテンスが閉じている(漢字多く締まっている)か開いている(ひらがな多く柔らかい)か。

参照文献の程度。過去から引っ張るか、未来から引っ張るか。よく引用する人なのかどうか。

デスマスなのか デアルなのか、辞書で都度引かなければならないほど難解な単語を容赦なく使ってくるのか、知識の鬼なのに 噛み砕いて誰にでもわかりやすく表現しているのか。

….. 著作テーマ・対象読者 によってそれらを変幻自在にコントロールできる人なのか。

などなど、

本の袖に書かれた『著者のプロフィール』よりも
Wikipedia にある経歴よりも
著書の人生経験や性格、そしてその根源を感じとることができる。




このブログの読書にまつわる 過去記事 を見返してみると

「この本は一瞬で読めたな」「今も自分の中に生きている」という一冊は、自分の命式にもっている主星あるいは従星その他と一致している著者のパターンが多いこと!

とある。



そうなのだ。算命学初学者なりに、そんなこと書いたっけ。いい記事だな。


今回の記事も、




自分に作用する1冊の選び方




をテーマにブログを綴ろっていくことにする。もちろん、算命学の視点で。


9月から今まで読んでいる本たち。
図書館で借りたもの。書店で直感で選んだもの。Amazonで狙ってカゴにいれたもの。読み返しているもの。いろいろ。
3冊程度を同時並行で読んでいる。







はじめに 実気と虚気の話をしよう




自分がもともともっている素質がある。
ここは算命学の世界だから、その自分の素質の象徴を「人体星図」と仮置きする。



この世を自分主体でとらえるなら、

自分か・それ以外か、と いう二元の見方ができる。


それ以外、とは「環境」のことをいう。すくなくとも算命学では「単独での個人=宿命」に対しての「環境」という。じつは環境もひっくるめて自分なのだが、ここでは語らない。

算命学でいう環境とは、両親はもちろん、祖父母・兄弟姉妹、配偶者、子供、お友達、職場の人、住んでいる国、住んでいる場所、住んでいる家、身につけている服、など 自分の境界線外かつ身近な全てのことだ。




そして

自分の性格や行為行動を具現化する源を実気という。実気を構成する源、核のようなもの、それが 鳳閣星、貫索星….天将星、天報星…という星の集まりで出来た人体星図だ。鳳閣星という要素をもっているならば、鳳閣星的な気が融合しやすい。だから鳳閣星的な性質がでてくるのだろうと推測し「占い」が始まる。

反して

環境から、意識するにしてもしないにしても、自分にひっついてくる気や
干合や位相変化で 命式内で化けて出た気を 虚気 という。

虚気は自分の質に合わないものでも 身についてくる。
自分が水で、環境が油でも、自分に油分が混ざってくる。

幼少期は親という虚気がくっつきやすい。無垢で反発や疑うことを知らない時代なので、身近な親の価値観が即ち自分の価値観だったり 自分の行動を無意識に形成する。

虚気はやがて実気となる







親元を離れたとき。何かの価値観から抜け出したとき。


それは霧の中からいつのまにか離れてしまったことに気づく。

やってきた道を振り返り 遠くの霧のかたまりを眺めるように


「あれは自分のものではなく、あの人たちのものだったのだ。」と気づくのだ。


(けれど、そんな今の自分を構成する要素にもなっているわけで..。)







大人になってからの虚気はかなり自力で選べる




当然、書籍も自分で選択できる虚気のひとつである。

自分とシンクロしたものは やがて自分の実気(=自分主体の自分自身) になるのだから、書籍選びは適当にはできない、とわたしは考えているし気をつけている。

特に人から影響を受けやすい人は 本1冊で気分が変わってしまうこともある。

テレビやYouTube などのメディアにも言えることだ。


パラパラとめくって サッと文章や考えのテイスティングをして「OK」の直感が働けば読み進める。
実店舗の書店は 価値は、相性のテイスティングができること 思わぬ1冊に出会えること、だ。



ちなみに、わたしは最初の「9月から読んでいる本」の写真の中の1冊を読んで 軽くうつっぽい状態になってしまった。1週間に2度は続けていた ブログも書けないほどに。
内容としては 「もっとも」な話で、面白くて ピンときた文章を書き写し読むほどの好感触だったのだが、同時に自分の信念が壊されて 進む道….. こうやって「自分の技術」を社会に提供していきたいという手段が まったくの無価値のように感じて 心が不安定になってしまった。価値なんて、自分がそのように設定していればそれでいいっていうのに。

そしてまた、別の1冊で 「こうしていきたい・信じているもの・現代産業へのアンチテーゼ」が著者のそれと同じで あなたはわたし?と、 仲間をみつけたような 肯定されたような 小さな師匠をみつけたような感覚になった。




冒頭のはなしに続くが、

おそらく 読んでいて「あなたはわたし?」「そうそう!わかる。」という開けるような感覚。
難解な文章でも 不思議とスーッと入ってくるもの。


そういう場合は

自分の人体星図の星と著者の星が 一致していることが多い。
(特に中心星か北方の星の一致ほど影響が大きいと思われる。2つ以上表出している星も影響力をもつ。)


自己確信の範疇だけれども。

中心星は自分自身をよく表す。
自分の中心星が玉堂星であれば、玉堂的な気と融合しやすいわけだ。
あるいは自分の玉堂みをかなり意識(比和)することになるのだから そりゃ心地よいと思う。「うわ〜〜」となるとおもう。


北方という座は知性や哲学・信念の場所だ。「書」は知的なものである。

だから私は読書や物書きの世界を この場合には、北方ととらえている。
(書く、書きたい、という気持ちは南方とも言えるが)

本という媒介を通して
思想哲学(発信者)・何かを学ぼう(読者) =ふたつの北方、が通信する。
北方がシンクロするということは、知性や信念の共有ととらえることもできる。

皆さんはどうだろうか。



一種の セラピーといってもいい



読書にセラピーや心地よさを求めるなら

  • 自分と著者の 十大主星がシンクロ
  • 著者の日干と自分の日干が、干合
  • 著者の日干が自分の守護神である

このいずれかを満たしていると「うわ〜〜」となるのではなかろうか。
癒し・共感・調和、など。読書によって、そういう感覚をもたらされる。

本というカテゴリーの中で、自分に心地よい虚気をいっぱいいっぱい与えてくれた著者は誰だろう?
という問いに、思い起こすまでもなく
わたしは、解剖学者の養老孟司さんを挙げる。

大学生のときに『バカの壁』を読んで以来、養老さんの著作を読み漁ってきた。
1番影響を受けたのが『唯脳論』だ。
養老先生は、難しいことを簡単に表現することもできるし 難しいままに書くこともできる方だ。
『唯脳論』は 私にとってはかなり難解な本だったが なぜか「わかる」のだ。それは、知的レベルの差はあれど想念という点でシンクロしているからだ。

養老さんの命式と自分の命式を照らし合わせてみる。


左: 養老先生 / 右: わたし




うむ。似ている。養老先生と出会ったのが大学生の頃だから、十大主星のことなんて知らない。
蓋をあけたらこうだった。中心星と北方星の一致。


そして、上で語った「9月から読んでいる本」で「あなたはわたし?」と救ってくれた著者を先ほど調べたら(ご本人の Twitter で誕生日を調べる執念w) またもや中心星と北方星が一致していた!

なので 確信をもって このブログを書いているんだ。





ちなみに、干支配列図はこんな感じです。

日干支が干合支合ですね。


もう養老先生、結婚しよう!笑





全ての著者の生年月日を手に入れることはできないし、生年月日に縛られて本選びをするのは限定的でつまらないことだけれど、ひとつの指針として算命学も本選びに利用することはできます。

答え合わせ的に、「だからこの著者と合うのか。また違う著作も読んでみよう!」「この著者が本の中で言及していた本を芋づる式に読んでみよう」という方法も。







上では「癒し・共感・調和」の感覚をもたらす本選び、でしたが

視点を変えてこんな選び方もできそうですと提案します。





無理なく影響を与えてほしい。スムーズに読み進めたい。→

  • 著者の中心星か北方星が、自分の中心星を生じている



鼓舞させてほしい。やる気を出させてほしい。→

  • 著者の中心星が自分の中心星を剋している

自分とは異なる考え方を取り入れたい。→

  • 自分の人体星図に表出していない十大主星を多く持つ著者
    (ただし読むのは苦行になることも)


わくわくするような、モチベーションあがるような。 →

  • 著者の中心星か北方星が自分の南方の星とシンクロ!












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