位と徳、のお話をしましょう。
これは一般論でなく算命学にとって、の言葉の定義です。
算命学の思想はアニミズムといってもいいと思います。
アニミズム(animism) : 生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。
wikipedia
木火土金水も、生も死も、電車で隣に座ったお姉さんも、お姉さんが落としたリップクリームも、駅から出て雪が降ってきたことも、この世に表出しているものは全て神の窓口です。
その神とはなんぞ、といえば 自然の法則です。
崇める偶像があるような神ではないです。
位が高い、位が低い。
徳が高い、徳が低い。
という表現。
位が高いとは自然の法則を事象(窓口)から読み取ることができることです。あの日お姉さんがリップクリームを落とした事象にですら何らかの法則や真理を感じ取ることです。川の流れをみて万物の真理が腑に落ちるときです。「ありがたい」「むかつく」とか、そういうふうに、そこに感情の付加はなく 純なままをとらえることができる。合理性や知性の世界です。
対して
徳が高いとは、情に厚いひとです。愛する者を傷つけないようにするとか、愛する者を傷つけた相手を恨むとか、世のため人のために心を寄せて動かして、物事や人とハートウォーミングな関係を結んでいくありさまです。非合理ですが人には愛されます。
算命学は自然の法則を知ろうとする試みですから、それを教える教科書は《位》である方が生徒にとっては《純》な学問となるのです。だから教科書には「死」「病気」「短命」とか「太く短く」「細く長く」というような心がザワつくような言葉が淡々と出てきます。
前の記事にも書きましたが、人間の脳や生存本能を介さなければ、生も死も産も病も、善も悪もフラットなことがら。
(さらに知性=二元を考慮しないのであれば、陰陽説ですら、あるようで、ない。ないようで、あるのです。)
位が高くあることは、自然の法則=神 により近しくなります。「そうである」を 「そうである」ままに受け取ること。「そうである」ことに悲しい・楽しいという感情が発生したそれですら「そうである」とそのままにすることも。
けれど、アウトプットするにあたりむきだしの《位》では人の世界では孤独になります。学問すなわちインプットに徳が介入すると濁るのですが、衆に向かってアウトプットをするときには徳をおおいにつかわなければいくら正論であろうと相手に「つたえる」「動かす」というミッションを達成でき難い。そして相手の感情を燃やし、摩擦が生まれることも。
すでに自然災害のハザードマップで十何年も前から危険区域という予測が示されている地域が実際に被災したとしたら、避難している人たちに対し「この土地に住むのなら災害に遭うのは当たり前」と言ってしまうことが《位のみ》が高いだけの人です。
まさに改革期にある老舗会社で、ワークフローの自動化を推進するための会議の中、創業時からマニュアルでの仕事に従事している社員の前で「その仕事はマンパワーじゃなくてもできるので、自動化できますね」とためらいなくいい放つ人です。
そこに本人の悪意は一切ないことが大半。
「そうなことを、そう言っているだけ」なのです。
世の中を最速で改良改革していくにはその力が絶対必要なんです。また時代も「情の時代」「理の時代」と特色があり、それは交互にやってきて、情と理どちらが歓迎されるかは時代次第。位が肯定される環境の中で、位のままに推進していくことは《純》《陽動》で、摩擦がないからものすごいスピードで物事が動いていきます。けれど次の段階でもっと大きな集団、徳の集団を動かしていくことが実行に不可欠な場合、ひとひねりが必要になってくる。
彼らの言い分は正論なのですが、位のみ高い人の唯一の抜けは「人の世界で生きている」という前提。
人の世界というのは
位が高くて徳が低い人という集合に加えて
徳が高くて位が低い人という集合も含まれている。
それを計算に入れつつ工夫できる人が中庸。
算命学だとか、それを学ばなくとも真理をつかめばつかむほど、位に傾いていくわけですが自己の中の刃物を包んで魅せるスキルがないと、孤独になる。
わたしは壮年期に
鳳閣+天南: ありのままを伝える星+環境を無視した批判力
車騎+天南: ストレートな攻撃+環境を無視した批判力
という、辛辣になりがちな組み合わせがあって、夫からの指摘がないとむき出しのナイフを振りかざしていることがあります。ここでの救いは、 鳳閣→車騎: 火剋金、陽同士のぶつかり合いでどちらも弱体化していることですね。
理を伝えるには情を最大限につかうこと
ちなみに理性のない情にはなんの進歩も発展もありません。