自死の理由を公開解剖する


時世か、自殺者が増えている。ご存知の通り、芸能界でも亡くなっている。

わたしは内容を見ていないけど、三浦春馬くんや竹内結子さんの死後、Youtube等、公が見る場で占術を使い、亡くなった理由・そのときの状況、そもそもの人物像etc…を公開鑑定している先生をちらほら見かける。

もちろん、わたしが専攻している算命学の界隈も、探せばヒットする。
驚いたことに算命学の学校でも例題として扱われるのを知った。



それは集客のためには有効な手段だ。


自死という異常な選択肢を選んだ人物の状況や心境を知りたい。好奇心をくすぐられる。誰でも。算命学鑑定士であれば、技術的にしかも精密に推測できる分、なお知りたい。知りたいなら研究しつくせばいい。ヒトラーが亡くなった理由、尾崎豊が亡くなった時の後天運をみてみる。ここまでは算命学鑑定士だ。

しかし「今誰もが注目すると知っている固有名詞」の「亡くなった理由」を推測する行為を「素人も含めた大衆」に公開鑑定するのは showだ。


解剖学者が大通りで亡くなったばかりの人を前にして「何故亡くなったのでしょう。いまから腹部を切って小腸をみてみましょう。皆さんみてください。そこのお兄さんも見てって。」と自分の技術をもって、死人を公開する。
その時点で死人は「研究材料」ではなく「見世物」になる。学問ではなく、学問を使った show 。


算命学がその効果をフルに発揮するのは、技術的に算出された《宿命》と生身のクライアントを取り巻く《環境》の掛け合わせ。同等か、むしろ環境に重きを置いて考察し、ベストな改良法をクライアントに処方した時だ。



自分と親しくもない、腹を割って話したこともない、口のきけない死者の《環境》を知りたければ Wikipediaとかネットに落ちている情報で得た「○○だったそうだ」をもとに、推測してゆくしかない。(推測という時点で事実でない可能性もあるし、算命学自体が事実でないし科学でない。



「自死した理由」を探るために、算命学を使うのは、却って事実とは離れてしまうのだはないか。算命学は「死のう」と思い立ち彼らがロープに手をかけるその細かな情の流れまではみれない。自死するという事態が「非常」なのだから、生きることを継続している常人が、果たして環境を推測できるのか。


推測を想像や常識でこねくり回し、それをあたかも事実のように話題を展開する「遊び」を、情報番組のコメンテーターによく見る。

この世にいない人を鑑定することは多々あるけど、それはその人の人物像や「なぜこの時期に成功をしたのか」とか時期的なものを知りたいという場合がほとんどだ。他の算命学ブログを見てもその傾向にある。


不謹慎だ、とかモラルの話ではない。showに対して批判もしていない。
わたしが中世に生きていたら、ギロチン処刑を広場に見物に行っていたと思う。



死んで間もない頃、誰もが検索する固有名詞と自負した上で、想像の中の環境を材料に算命学をもって大衆に公開するのは「エンターテイメント」ですね、と言いたいだけだ。大多数の知的好奇心を満たしてくれるショーだ。処刑も中世では娯楽だった。



身内や親しい人に頼まれてそうするのは例えそれが非科学であっても大きな慰めになる。「仮に」でもいいから知りたい。納得したい。それが降霊術でも、いいのだ。納得は心に安堵をもたらす。


そう考えると、公開鑑定は慰めなのかもしれない。
ファンへの慰めか、エンターテイメントか、どうなのか。


どちらにしろ算命学の効果的な使い方をしていないので、わたしの「師匠」や、憧れている「大先生」がエンターテイナーじゃなくてホッとした。格下げというか、がっかりする。

Drawing-for my grandpa



ただ、死んだ。

外野が想像をこねくり回しているのをそっちのけで

遺体は眠る。

閉じられた瞼、冷たい青白い肌、首のアザ、

騒がしい外野はその冷んやりした静けさに触れられることはない。

死だけがある。




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