【禅と算命学】自己を明らかにする そして忘れる



仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。


〈現代語訳〉

仏道を習うということは、自己を習うことだ。
自己を習うということは、自己を忘れることだ。



上は 鎌倉時代のお坊さん、 道元禅師のことばです

道元師は 京都に生まれて 24歳の時に
ホンモノの師を求め中国へ留学し
中国禅を会得し 日本に伝来しました



仏道を習う= 自己を習う
自己を習う= 自己を忘れる


ということは



「仏道を習うということは 自己を忘れることだ」


といえます




自己を追求してはならんと






この自己追求、 何のガイドラインもなく
単独で 「自分探し」に専念すると迷います



自分の心や感情をセルフ解析(=自己追求) しすぎると 迷う




わたしは19歳 のころ
浪人生になったばかりの5月
「自己追求」の成れの果てで
パニック発作というものを起こしました


普段は最低限の会話しか交わさない父の手を
子ども時代ぶりに握りしめて
夜間に病院に運ばれました
(そうでもしなければ どこかへいってしまいそうな感覚があった)




時は経ち 社会人になったころに
友人の恋人の話を聞いて
禅の教えを汲んだ 精神療法に出会いました


↓ (懐かしい.. このブログの一番最初の記事です)





この自己追求、 何のガイドラインもなく
単独で 「自分探し」をすると迷います



と先述しましたが


ここで言う ガイドライン とは
「宗教」「教え」「常識」etc.. とします




人はどなたでも何かを信じています
無宗教であるとしても

何か があれば 何か について 自分なりの定義をいうことができます
その行為ができるのは「信じる」という機能からです


空港から飛行機でシベリアを越え12時間飛んだ地には
ヨーロッパがある と信じているし

他者に会釈したら 会釈をして返されると信じている


それゆえ 自己を自己として保ち
平常心で生きています



信じるということは 大安心です


ぐにょぐにょの私・社会・ものごと に
決まった形を与えてくれる



だから 古来より 地球上の各地で
さまざまな 宗教 が発生し
今日まで 発展したのだと思います






算命学思想

それそのものは 宗教ではありませんが
原典上 〈神〉という語は ありまして
自然の法則 = 神 として扱っています

(わたしはこの〈神〉という言葉を デデーンと 使用するのは
読者やクライアントに 「崇める対象 = 一神教」のような
思い違いを招きそうで 自分の学習ノートですら いつも躊躇します。)




自然の法則とは 水が下に向かい流れることです

木を擦ったら 火が生まれることです そして木が灰になることです

果物が 木から落ちたら また来年の同じ年に みのることです

木星が 11.86年かけて 太陽の周りを一周することです

性質の異なる二つが出会い交わり 子ができることです




自然の法則(ありよう) = 暦 = 人間の法則


ゆえに


暦という符号から自然のありようを考察し
一個人を解析する 間接予知が生まれました









仏道を習うということは 自己を習うこと
自己を習うということは 自己を忘れること




道元禅師の説をオマージュするなら


自然法則を習うということは 自己を習うこと
自己を習うということは 自己を忘れること





に尽きる、
と しみじみ考えています


文脈上 矛盾しているようですが
算命学が 弾き出してくれた 自己(仮) を知るということは
セルフ自己追求にかかずらう時間をショートカットできる
ということなのです


すると 安心を得て
他の外作業・仕事に 時間をさけます


セルフ自己追求は (わたしは) 非合理的で
精神衛生上でも危険だと思っています



そもそも
追求しなくても今ここに
何かを考えている誰かがいて
臓器は淡々と働いて
食べれば 便もでます


その事実だけでも 安心です


生年月日から導かれたものが 自分の精神の全てではありませんが

まるで 答え合わせのように かなり 明らかになります




その内容がどうであれ ..


人により 算命学でなくとも

( 四柱推命でも西洋占星術でも宗教でも哲学者の教えでも
親でも 尊師でも テレビでも 書籍でも)



「信じる何か」「仮説」を
意識して 手に入れた ということは


合理的で 人生のアドバンテージになると思っています









参考文献:角川文庫『禅のすすめ』 角田泰隆


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