情の国に理で攻めても跳ね返される、その逆も



誰かに「とある内容を理解」してほしい時、受け取る相手が情的なのか、理的なのかで伝え方をコントロールしなくてはならない。

極端に情的な人は、理的な指摘を「冷たい」「怖い」「バカにしている」「(思考停止して)よくわからない」と受け取ることがある。理的な人の言葉の端々が彼らの地雷に触れる時が多々あって、そんなとき彼らは烈火の如く怒ってしまう。「責められている」「馬鹿にされている」「ないがしろにされている!」と、深層にある古い炭に着火する。
「そのコップは大きいよ。」とそのコップの特徴を言えば「大きくて悪かったね!」と。

「 ?」の極み。「悪い…?」

理的な人には怒らせようなんて、そんなつもりは微塵もないのよ。怒らせることは彼らの気質的にも、不都合でしかない。

理的な人は、情的な人との言い争いは出来る限り避けようとする。理と情の言い争いは、共通の言語を使っていたとしても、違う言語や違う宗教をベースに争うようなものだ。理的な人は経験でそれを知っている人が多いし、情的な人も自分が傷つくことを回避する。

実りのない言い争いはエネルギーと時間の浪費だと思う。

あまりにも話が通じないと、その人とはコミュニケーションをとることを諦めてしまう、人もいる…。これが一緒に生活する人であれば悲しい。


情的・理的、本質的にどちらも兼ね備えている人もいる。
マツコデラックスなんか、そうだと思う。彼女は色んな意味で幅広い。



会社員の時に、会議で多様な人間、現場作業のおじいちゃんから管理職の人にまでに説明しなければならない時、資料作りにとても気を遣ったことを思い出す。
完全に理の世界の人なのに、どんなレベルの、性質の人間が聞いても心地よくて分かりやすく気取らない会議の場や資料を提供してくれる人がいらっしゃって、そんな人を算命学でいうと「位と徳のバランスがとれている人」というのだろう。

上は十二支を時計のように配してそれぞれに、方位・季節・五行・寒暖湿燥の質を配したもの。季節・土地の風土の特性として、東西南北を、湿 (ウェット) と (ドライ) / (クール) と (ホット) で分けた。

十二支は、藁人形を打ち付ける「丑の刻参り」だとか、馴染みの時刻表現だけではなく
子が12月、丑が1月、寅が2月….と12ヶ月が割り当てられている。
また、そこに東西南北五行: 木火土金水 も配当されている。

子は、真北/12月(冬至)/水性
午は、真南/6月(夏至)/火性 と言った感じに。

季節をウェットとドライという観点だけで見た時に、子-午の線分を境にして、右半分はウェット。左半分はドライ。と見ることができる。

人の性質で言うならばウェットは情的、ドライは合理的、ともいえる。

右側は陽気が盛んになっていく過程。冬至を境に日照時間が長くなり、雪が解けて、土が湿り、木々や草花が青々と生長する。

左側は陽の活力が衰え、静かで穏やかな陰の気に覆われる。空気は乾燥し始め、生活に欠かせない稲や生長しきった植物を刈り、畑を新(サラ)な状態に戻して厳しい冬に備える。


人もこの世に生まれた日によって、その風景や性質が異なる。情の人か、理の人か。


算命学地法のワークでは、干支の意味合いを作成するときに「丁酉」だから「性格は、温かいわりに、ドライで…」なんていう捉え方をした。けれど、それは「地法に於いて」という話。


me & mom in 1991

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。