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お風呂に衣類と サジ2の重曹を放り47度の湯を張る。(量も温度もテキトー)
衣類がつかりきるのをみはからって湯を止める。
風呂から離れ 別部屋にて 仕事とか掃除とか コーヒーを淹れたり..そうやって30-1時間、ときには数時間経過する。
その仕事のキリがいいところで 湯船の衣類を収穫する。
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蛇口から湯をひねり 桶に落とす
そのさなか グワシっ と衣類をひきあげて
桶にたまった湯と流水の力で すすぐ。
粗く しぼる。
スリッパはいているのに 靴下濡れる。
しぼりをほぐして カゴに放る。
放った衣類 を 洗濯機に放る。
洗濯機の役割は6分の脱水のみ。
妊娠で腹がついに大きくなるまでは こんな洗濯の仕方をしていた。
重曹すら使っていなかった記憶。
赤ん坊が生まれて てんてこまいで それはできなくなった。
それでも布オムツを洗うのは癒しであった。
子どもが3つになった。ショベルカーとぬいぐるみで ひとりで遊んでいる。
ふと思い出し このドカタ系洗濯を再開。
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「お湯で洗いたいのなら ガスを使う洗濯機もあるよ」と、ガス家電に憧れをもつ夫が言う。
なにをいう。
温水で洗う・節水という効用もあるけれど、主たる目的はそうじゃない。
きっと、これは私の《行為》 のためにやっている。
汚れ落としは二の次だ。
《私》がいないと、意味はない。
このような なんでもない作業をしているとき
地に足が着地しているような気になる。
グラウディングというのだろうか。
私がやっているのに《私》がスカッと消えているような。
夜に編み物を淡々としているような。
ジョギングをしているような。
家事家政といえば 十大主星の司禄星をおもいだすが 司禄は陰土性(大地)である。
情緒がホッと安定する。
生きる活動=生活 の真っ只中にいるから。
生活の中に大切なことがたくさんある。
生活には、
ジムがあり
整体があり
カウンセリングがあり
悟りがある。
しかも徒歩0分。無料だ。
効率重視・少ない資本で多くの功を得る知恵
それを行使しないものを「愚か」だとする考え
この効率をあげていこうとする知恵を受け、ありがたいときも多々ある。
「わからない」「むり」と 非効率で停滞している人をみると 悶々とするときもある。
しかし
このカラクリが飽和して、
自分、一個体でみたら、非生産になってしまう時があるんだね。
脳は前頭葉だけではないのでね。
野生的な領野もあるし
身体のパーツパーツは脳のあらゆる場所にマッピングされている。
脳を使う、というのは「勉強ができる」だけではないんだ。
原初・未解な部分も含め 生命であるから、
賢いだけでは 生をもてあますではないか。
ドカタ・野蛮・泥臭い要素は 恥ずかしいことでしょうか。
機心
孔子の弟子の 子貢 が 楚に遊びに行き、晋に帰る途中、漢を通った。
その途中に 畑でせっせと作業にホネ折る 老人をみかけた。
その老人は 地下道を通り井戸の水源まで降りて水を汲み、水の入った 大きな甕(かめ) を抱きかかえて上がってきては 畑に水をまいている。
その繰り返し
子貢 (えww やば。)
その非生産性にみかねた子貢は 井戸の底をのぞき老人に話しかける。
「機械というものを知らないのですか? 1日に100畝に水を運ぶことができます。」と尋ねた。
「どういうものなのかね?」と 老人は子貢を仰ぎ見る。
「木をくりぬいて からくりをつくるのです。後ろは重く前は軽くして..。するとちょっとの力で多くの水を汲めるんです。その名も《はねつるべ》。使ってみたらいかが?」
と、からくりを教える。
子貢は 用を尊び 功を重んじ 経済に心を寄せていた。
「….。
ああ (にっこり)
わたしの師の言葉でね、こんなことをおっしゃったよ。
機械をもつ者には、機械のための仕事ができてしまう。たとえば、その機械がよく働いているかな?とか 成績はどうか、効き目があったか、など。
そんな仕事は《はからう心》=機心 で いっぱいだね。
こうなると純白ではないのだよ。
無意識が仲介なしに ストレートに仕事に流出せぬと、純白は失われ、どうやらその瞬間に「神*」が 安定を失うらしい。そうすると道から外れてしまうものなんだと。
* 一神教の神ではなく、霊性とでもいうべきか。
わしは その《はねつるべ》 を知らないわけじゃないんだよ。
ただ、恥ずかしくて使っていないだけなのだ」
帰宅後、子貢はこの老人の話を 孔子につたえた。
「それはおもしろい。このような人は、物のまだ一つで、二に分かれぬさきに生きている人である。」
機心とは、渾沌未分に二つの性をもたせ 分かつことなのかもしれない。
1 が 2になると相対と分類ができる。
3.4.5.. と展開する。
考察することができる。
お話しが始まる。
主と客ができて 対抗がはじまる。
だから陰陽説・天地人・四季・五行説 …
と転々コロコロと 《説》ができたのだけど
それは人間が なんとか宇宙を仮説的にとらえる方便
「解る」「説・論」とは 脳の一部で達成されたもの。
解りたいものは わからないままに ここにある。