仏教と算命学の絶対矛盾


人間は生存するために「知性」という機能をもちます。
知性は「分けて制する」ことです。


わたしたちは言語を操るようになった時から
人、物、事象、病気etc.. など、あらゆるものを細かく分類し名前をつけていきました。


分別できないものは、「怖い」です。



「怖い」という感情も人間が生存するための機能です。


分からない情報が目の前にあり、怖いという居心地の悪さを感受し、
その不快感を除去するために、肉体を動かすか、知性を働かせる。

COVID-19も、WHOがつけたのか分かりませんが、そういう名前を即座につけて
その実態が徐々に明らかにされていったけれど、
「ようわからない」ので最初は皆怖いし、様々な「仮説や憶測」が生まれるのも「怖い」が原動力なのだと思います。


皆、見知らぬ人やものが怖いです。
怖いからその人の顔立ち、服装、言葉、表情筋の微妙な動きや雰囲気までも
察知分析して、なんとか納得して安心します。
わたしはさらに安心するために、「算命学」に惹かれた人間です。


算命学…その元になった陰陽説も五行説も暦術思考も、
もとはといえば「怖い」という不快感が原動力でうまれたのだと思います。

大自然の現象により、いつ自分と家族、村、国が終わってしまうのか分からない状況。
いつ頃、種を撒いたらより発芽しやすいのか。いつ頃、ホッと一息つけるのか。
いつ頃、あの嵐がやってきて収穫間近の作物がおじゃんになるのか。

そんな無分別の世界のあれこれに名前をつけ観察し、法則を見出し、
自分も後継者にも扱いやすく、わかりやすく、シンプルに体系化する。


算命学は分類学でもあります。どこまで行っても分類、分類、分類
陰・陽 / 天・地・人 / 春・夏・秋・冬 /東・西・南・北・中央 /

分類とは上でも述べた「知性」から生まれます。

主と客、心と肉体、天と地。


このような二元性は、仏教・禅とは正反対です。


わたしは禅が背景にある精神療法に出会った以来、実践と、
その精神を「知って」生きていました。今もです。
「心に無分別」とかいうことです。(この話はまた別のはなし..)



α仏教 β算命学 の矛盾は、わたしが自身に課した公案です


そんなこと、一言も漏らしていないのに (このブログを見ていなければ..)
まさに欲しい情報をわたしの先生が
フと溢してくれて驚きました。

算命学と仏教は正反対。
仏教は「何かを捨てていくもの。」
算命学は「何かを満たしていくもの。」

ああ、やっぱ正反対なのだね。


算命学は「東洋思想」だとか呼ばれますし、そうなのですが、
禅学者の鈴木大拙が意味する「東洋思想」とは真反対。

むしろ、その性質は鈴木大拙が意味する「西洋思想」に属します。

(鈴木が定義する) 西洋思想は、
二元性から知識が出て、発展し世界観をつくります。
主・客 / わたし・あなた / 0・1、がまず初期設定であって
そこからお話が始まるんですね。

いっぽう

(鈴木が定義する)東洋思想は主客未分以前、わたし・あなた以前。
わたし・あなたが発生するその刹那。
まだ名がない、なんの分別もない、設定すらない。

その瞬間をとらえることが老子の「玄之又玄」だと鈴木は言うのです。
東洋思想だと言うのです。



調べていくと老子の教えは仏教の禅宗と密接に繋がっていることを知りました。

おかしなことに、そんな老荘思想は、

算命学の根底に流れています。
1番目の師匠にも2番目の師匠にも
算命学を始めるなら、まず「老荘思想」の書籍を読むことを勧められました。


自分の道という項を極として、 精神α と 精神β が真反対であり矛盾します。


しかし、一個の人間が αとβに惹かれるということは
実はその異なる性質に共通項が見出せるのではないか、
という仮説をつくって、意識して、授業をうけてきました。


なにか、直感じみたものですが
算命学に「禅性」はある。
わたしはそれを見出し、論理的に破綻していてもなんとか言語化し、納得し、
αβという精神を以って、現実世界で仕事をするんだ。

という かすかな予感をもっています。



鈴木大拙の「分別の無分別、無分別の分別」
般若心経の「色即是空、空即是色」

命学と禅とは、その妙でしょうか。

分別は無分別に包まれ、無分別は分別に包まれていて
もう果ても線もないです。


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