先週、絵本とオーガニック食品のお店に立ち寄った時に
無糖の酵母パンを見つけ、そのパンが大変重宝したのです。ほとんどのパンは発酵の手助けか味覚のために糖が入っています。無糖はなかなか見かけません。食事用としてのパンが欲しかったので、パンは今まで嗜好品としていました。
けど、パンは楽ができます。朝何も考えずに台所を汚さずにサッと出せて、こどもが必ず完食してくれるしボロボロ落さないから重宝します。(米を残すのはなぜだろう)
先週は無糖酵母パンのおかげで朝がグンっと楽だったんです。
そんな食事用としての素朴なパンをストックできたらいいなー、と近隣でパン屋さんを探していました。すると、近隣ではないけれど車移動の範囲内で、理想の石窯パン屋さんを見つけたのです。
遠いから通販やっていたら嬉しいな、とホームページを開くと FaceBook でした。通販はやっていないものの、そのパン屋さんの最新投稿から『98歳、石窯じーじの いのちのパン』という本に出会います。
このお爺さん、竹下晃朗さんがそのパン屋さんの石窯建設をお手伝いされたそう。この竹下さんの目に射抜かれて、この本を購入と同時に、「お店をやっているのかな?」と彼のことを調べました。調べていくうちに、竹下さんが生み出すパンの特徴や理念を知ります。
彼はパン職人ではなく、石窯パン研究家で本職はエンジニア。1921年8月シドニーで生まれ学生になる頃、日本に戻ってきました。幼少期に食べた朝の焼き立てショートブレッド、そして現役時代にドイツ出張で食べたブロッチェン。それらは― 小麦本来の味が生きたいのちの食べ物としてのパン ― その味にたどり着くために材料と製法を研究しつづけます。(90代になった今でも!)
古代小麦の全粒中力粉を石臼でじっくり挽き、自分の窯で焼く。
粉を引く臼は骨董屋にあった石臼を、ご自分で修繕し、モーターをつけて自動化。石窯オーブンも自分で作成します。
京都でワークショップを開催されているようで、参加するために情報を探していたところ
その日からの一昨日、永眠されたことを知りました。
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この一週間は、石窯じーじの本とパン漬けでした。
そしてこの土曜日をとても楽しみにしていました。
車で遠出して竹下さんがお手伝いした石窯がある冒頭のパン屋さんへ行ってきたのです!
全粒粉のパンを一斤買いました。
ずっと噛んでいたい唾液がよくでてくる 小麦の味がします。
今朝はハムとバターをのっけてみましたが、ない方が一層よかったです。
本には竹下さんの98年の人生が描かれて、彼の人生そのものが全粒粉すなわち玄麦のようだなと感じました。扱いづらいが、風味がよく、滋味。
精製された小麦や米は「綺麗で甘くて素直」です。
未精製のものは良いも悪いも、堅いも柔らかいも、まるっと入っています。その分、風味と栄養が豊かですから、余分なもので飾る必要がありません。
玄って何でしょう?
玄は色味として「暗色」という意味もあります。
みかけが暗い麦、暗い米ということで「玄麦」「玄米」、そうですね。
白と黒は対としてしっくりきますが
白と玄は対でないんですね。
わたしなりの解釈を混ぜます、
玄が白も黒も包含しているんです。
老子の言葉に「同謂之玄。」
「同、之れを玄と謂う」とあります。
有も無も、黒も白も、わたしもあなたも、甘いも苦いも、
名前と性質が異なるだけで、出どころは同じよ。その「同出」が玄。
これは算命学の一極二元論の一極にあたると思うんですね。
老子は「玄之又玄」玄のまたさらに玄は…、と説きます。
二元をなしている一極も、何かを極にした二元のひとつで、
その前の前の前の前の….極を辿っていくと
その境地は 名前のない、ひとつながりです。
主客未分以前のことです。
鈴木大拙の解釈で「かすか」「曖昧模糊」です。
全粒粉は玄なので、消化できる部位もできない部位も、
甘いも苦いも有機も無機も含む、全体です。
いのちのパン、という意味が分かった気がします。
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